守り、受け継いでいきたいのは「水戸っぽ」のプライド

2018年11月30日

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関東平野の北東部に位置する茨城県。県の魅力度ランキングでワースト・ワン…などと度々話題になるが、水戸藩の歴史を引き継ぎつつ、自然豊かな暮らしやすい環境で知られている。

11月30日告示・12月9日投開票の茨城県議会議員選挙に立候補する玉造順一は、「これからの茨城の課題は、水戸藩以来の誇りを受け継ぎつつ、それを現代に合わせたかたちでアップデートすることだ」と語る。実の母が障がいを持っていたことで、子どもの頃から政治に強い関心があったという彼は、水戸市で市議会議員を3期務めた後、現在は病院の関係機関で働いている。

現在茨城県には立憲民主党の地方組織は存在しない。しかし彼は、「だからこそやりがいがありますよ」と笑う。茨城初となるLGBT当事者と支援者によるNPOの立ち上げに携わり、虐待されたり、身寄りのない子どもたちをケアする施設でボランティアをするなど、積極的に活動する彼に、茨城の魅力と、これからの課題について聞いた。

*この記事は過去に掲載したものを再編集してアップしています。

障がいを持っていた母の姿がいつも心の中にある

──自己紹介をお願いします。

玉造順一です。1971年生まれの現在47歳。水戸市出身で、水戸市議を3期務めた後、いまは市内の病院関係の部署で働いています。言ってみれば生粋の「水戸っぽ」です。

──どんなご家庭でしたか?

両親ともに公務員で、妹がいます。少し事情があって、僕が小学校1年から6年までは祖母に育てられたのですが、以降はいわゆる普通のサラリーマン家庭です。いまの自分に影響している要素があるとしたら、母のことですね。

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──というのは?

すでに亡くなりましたが、僕の母は小児麻痺の後遺症で、足が悪かったんです。すごく強い女性で、障がいをものともせずに、立派に働いていました。それでも子どもながらに世間の視線が厳しいものだというのは感じていました。子どもたちの中でも「おまえの母ちゃんは障がい者だ」というようなことを言われもしましたし。

いまは「障がい者の権利」なんて言葉も普通になりましたけど、3、40年前は、障がい者の置かれた状況というのは非常に厳しかった。そうした差別や偏見を、家族とはいえ本人ではない自分が感じとるくらいなのだから、当事者である母は、表には出さなくとも、きっと傷つきもしていたんだろうと思います。

とにかく勝気なひとでしたから、そういうことを僕にこぼすことはありませんでしたが。

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子どもの時代の母親との2ショット。

──お母様の思い出で一番印象に残っているエピソードがあれば聞かせてください。

母のことで一番覚えているのは、僕が小学校一年生の時に、彼女が運転免許を取得して、車を買ったこと。印象深いというか、子どもながらに衝撃的だった。だって母は足が悪かった。ブレーキとか、アクセルとか、車の運転は足でやるものじゃないですか。それで当時としては珍しい、手ですべて運転できるトヨタカローラを購入したんです。

あれは県内でも、1番か2番だったんじゃないかな。車を買ったその日、母親が僕に言ったのは、「わたしに足ができた!」って。あの笑顔と言葉は今でも忘れらないです。本当に強い人だったなって思います。

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──学校生活はどうでしたか?

母のこともあり、僕としてはつらい思いをしたこともあったんですが、学校の先生がすごく親身になってサポートしてくださって。中学に進学する頃には、いじめだとか家庭環境だとか、そういう様々な事情を抱えた子どもたちをきちんとサポートできるような教師に自分もなりたい、と考えるようになりましたね。

でも、当時の僕はあんまり成績はよくなくて(笑)。教師になるためには地元の大学に進まなくちゃいけないし、地元の大学に入るためには高校受験もがんばらなきゃ、となりました。そこでも中学の先生たちがバックアップしてくださって。県立の普通科の高校に入ることができました。先生たちにはいまでもとても感謝しています。

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大学時代に失恋し、「一度きりの人生、好きなことをやろう」と政治を志した

──大学は地元の茨城大学に進まれています。教員志望だった玉造さんが政治に関心を持ったきっかけは何ですか?

大学の最初の2年間は教養課程で、3年の時に専門を選べるしくみなんですね。教員免許を取るための課程をこなしながら、当時起きたチェルノブイリ事故がきっかけで原発や、憲法の問題に関心を持ち続けていた。

憲法に対する想いは、やっぱりここでも母の存在が大きくかった。不当な差別を受ける母の姿をみて、「差別のない社会ってどうやって実現できるんだ?」と。中学時代には母のことで落ち込むと、憲法を読んで勇気をもらっていたくらいだったので。今思うと少し変な子どもですけど(笑) 色々考えた後、政治学のゼミに入りました。

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──その時期、一番打ち込んだことはなんですか?

サークルは、1年のときから公務員試験の勉強をみんなでやるような、「法学研究会」という勉強会に所属して。学祭では当時、水戸に作られようとしていたゴミ処理場の問題をディスカッションするイベントをやりました。リサイクルについて、大学と企業とサークル、行政や市民みんなで考えよう、という当時としては画期的なシンポジウムだったと思います。

当初、「そんなイベントやっても客こないよ」という意見もあったんですが、蓋を開けてみたら新聞社も取材にきたり、けっこう評判がよかった。実は高校の頃も、チェルノブイリの事故を受けて学祭で展示をやって、当時流行っていた「フィーリング・カップル」といういわゆる「ねるとん」企画と衝突し、結果的に教室を2つにスプリットして実行したことがあって(笑)

勉強の上でも、自分自身の生き方の上でも、政治への市民参加みたいなものへは、荒削りながらもずっと関心があった気がします。

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中学時代から読書家で、事務所の一階には岩波文庫の古典が並んでいた。

──その頃から政治家になるという選択肢は考えていたんですか?

いえ、最初はそこまでは。でも、少し恥ずかしい話ですけど、僕20歳の時に大きな失恋をしたんです。それでもう「やりたいことをやろう」と。当時の仲が良かったグループと出かけたスキー場で、好意を抱いていた相手とたまたま二人乗りのリフトに乗っている時に告白して、「ごめんなさい」という返事だったので、僕はショックで滑ることができずに、また一人でリフトに乗って帰って来たという…。

泊りがけだったので、一人でロビーでヤケ酒を飲んでいたら、相手がやってきて、優しい方だったので、そこで一晩語り合って。それでけっこう振り切れましたね。一度きりの人生、自分じゃできないと決めつけて行動を起こさないのはダメだ、と。こんな話をしたのは初めてだけれど(笑)

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──それは…(笑)

そもそも地方で政治家を志すというのはとてもハードルの高いことなんです。僕は政治とは縁遠い家に生まれたし、なおさら引け目を感じていた。当時はちょうどPKO協力法案というのがあり、自衛隊の海外派遣が初めてリアルに議論されていたような世相だった。

そういう時代に、自分の気持ちを閉じ込めて生きてていいのか、と迷っていたのが、若者らしい失恋の経験の中で吹っ切れたのかもしれない。いまは相手に感謝しています(笑)

ただ、大学卒業してすぐに政治家になれるなんて甘いことは考えなかった。大学卒業後は、働く人たちの力になりたいし、まずは地域の実情を知ろうと、地元の労金に就職しました。

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悩んでいた中学時代、相談に乗ってもらっていた先生から薦められた石川達三の『人間の壁』は愛読書のひとつ。

もっとも力を入れてきたのはLGBT支援と子どもの虐待からの保護

──31歳の時に水戸市議になられています。立候補を決めた最大の理由はなんでしたか?

僕は政治家になるために政治家になるようなタイプじゃなかった。障がいや差別、憲法や原発などへの問題意識は、子どもの頃から自分の中で一貫していたし、それをクリアに水戸の人たちに伝えられれば、絶対に通じ合えるという確信があったんです。

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政治活動を始めた頃のリーフレット。

──その後、12年間水戸市議会議員として活躍されていますが、市議時代、一番印象に残ったのはなんですか?

ちょうど議員に当選して1年過ぎたくらいの時期に、性同一性障がいのことが全国的に話題になったんですね。当時、性同一障がいの方の性別変更を可能にする法律が成立したんです。

けれど、みんなが法律的な性別変更をしているわけじゃないですから、たとえば投票所に行ったとき、入場券には「男」と記録されているのに見た目が女性だと、本人であることを疑われて、とても嫌な思いをすると、そういう声が全国的にあがっていた。

だから、僕は不要な性別欄をあらゆる行政文書から削除することを求める質問を用意していた。そしたら、ちょうど水戸市議会にも同様の陳情が出されたんです。

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──それは当事者の方による陳情ということでしょうか?

そうです。ご本人にもお会いしたのですが、当事者としての葛藤や是正を求める声を初対面の僕に託してくれて。

水戸市でもちゃんと取り組まなければと、超党派の議員さんと一緒に陳情の採択を果たしました。同時に、僕は本会議で性同一性障害のかたに配慮した性別欄削除の提案をしました。実は当時の市民課長が非常に勉強熱心で、そうした新しいニーズに関しても熟知している方で。結果的に、250種類の水戸市の行政文書から性別欄が削除されたんです。

苦しんでいる当事者の声を受け止めて、行政と連携して必要な施策をとる。あれは議員になって本当によかったと思った瞬間でした。

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──他にもありますか?

虐待を受けている子どもの保護です。水戸では、日本赤十字社が、「乳児院」という施設を運営しています。虐待を受けた子どもや、いろんな理由で家庭での育児が困難な子どもたちが受け入れられています。スタッフの方々が口にしたのは、「自分で“やめて”とも“痛い”とも言えないような年齢の子どもたちが虐待を受けたり、育児放棄をされたりしているんです」と。

僕、胸が詰まってしまって。その言葉をそのまま原稿にして、本会議で全議員に投げかけたんです。そしたら、質問を終えたとき、自民党から共産党まで、「そうだ!」って声があがって、拍手が起きた。

いろんな政策については立場も違うから真剣に議論もしますけれど、やっぱりいざという時には水戸には超党派で問題を解決しようとする気概みたいなものがあるんだな、と実感しましたね。水戸っぽは保守的なところがあるけれど、先進的な一面もあるんです。

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全国ワーストクラスの医師・看護師数——働く人たちの待遇改善で人材流出を食い止める

──茨城の魅力と課題について教えてください。

茨城は関東平野のど真ん中、海の幸も山の幸も豊かです。『常陸風土記』という古文書に、常陸の国は海の幸も山の幸も豊富で豊かな土地だ、という記述があるくらいですから。首都圏にも非常にアクセスがいいですし、とても暮らしやすいところではあります。時々「魅力度ワースト」なんて言われますけど、県民は気にしてません(笑)

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──課題についてはどうでしょうか?

なにより人材の確保です。東京に近いというのはウィーク・ポイントでもあって、福祉やまちづくり、様々なNPOの運営などでも、人材が東京に流れてしまう。たとえば医療従事者の数でいえば、人口10万人あたりの医師数はワースト2、看護師数もワースト4、という状況です。

県内に住んでいても東京に通ったほうが給料も高いですし、高度医療の勉強もできるということで、人材が流れて県内で定着しないという問題があります。医療や福祉を担う人材を県独自のメニューで育て、支えていく。

そしてこれは医療関係に限ったことではないですが、現在は非正規雇用で働いている方々の賃金や待遇を、県ぐるみで改善していく努力が必要です。

──積極的に取り組まれているLGBT支援についてはでどうでしょうか?

この10年ほどで、LGBTに対する理解は進んできたように思いますが、どうしてもやはり東京や大阪などの大都市圏を中心にしているイメージがありました。けれど、各地で当事者やその支援者が様々な活動を始めています。

茨城は人口300万ほど。LGBTの一般的な比率が7〜8%と考えると、相当な数の当事者の方がいます。その方々が相談したり、つながりあったりする場所がないと困るよな、と。じゃあ当事者の方と一緒にその居場所づくりを始めてみようということで、水戸在住のレズビアンの当事者の方と出会い、その方と一緒に昨年9月に「レインボー茨城」という当事者と支援者による団体をつくりました。

インターネットでホームページを作ってからは、県内の当事者の方々からの問い合わせや相談がとても多い。反響の大きさに少しびっくりするとともに、地方でもこれだけ悩んでいる当事者の人たちがいたんだな、と。手応えを感じています。

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インタビュー後、中学時代の同級生が経営するダイニング・バーで食事をした。

──茨城では、東京に近い南部と、水戸のある北部では、やはり雰囲気や文化も違いますか?

それはよく言われることです。南部の方はやはり東京のベッドタウンとして発展してきているところが大きい。それに比べて、北部は水戸を始めとして、重厚な歴史を持つ、どっしりと構えたまちが多い。そうした県内での文化の違いや多様性を強さに変えるには、やっぱり茨城としてのアイデンティティをしっかりと持って、必要な政策を推し進めなければ。

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──現在活動されている水戸は北部にあります。一言で言うとどんなまちですか?

水戸は県都としてイニシアティブを発揮して茨城政治を担って来た自負がありますが、反面、少し保守的で、人の意見が聞けないところもあるんです。これは生粋の水戸っぽである自分にも当てはまるな、と思うのですが(笑)

北部は近年、経済的には少々苦しい状況にあります。それにLGBT支援やまちづくりなど、新しい挑戦をしなければならない時代になってきた。水戸で政治活動をしてきて思うのは、これまで政治参加してなかったような人たちまで巻き込むことができれば、水戸にはまだまだ自分たちで気づいていない伸び代があるんじゃないかと。

水戸藩以来の伝統のある誇りを、いかに現代的に再定義して、守り、受けついでいくかが僕のテーマです。水戸っぽの底力を発揮したいですね。

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原発ゼロとボトムアップが立憲民主党の核心

──茨城には立憲民主党の地方組織のない茨城での政治活動はどうですか?

最初は「どうしたもんだっぺ」と思うところもあったんですが、逆にいうとやりがいがあるな、と。僕は十代の頃からずっと原発の問題を考えてきた。茨城も原子力発電所の立地自治体です。特に東日本大震災以降、原発を好き好んで推進する立地自治体はありません。が、経済や雇用を考えると、なかなか反対に舵をきれない現実もある。

──玉造さんからみて原発ゼロへのキーポイントはどこですか?

上から目線で「原発推進」や「原発反対」を掲げるのではなく、地域に生きる普通の人たちのリアリティに寄り添って政策を語っていくこと。

たとえば、県内の自治体のうち、3分の2ほどが再稼働反対の決議をしていますが、3分の1はまだです。だったら、その反対と言えない自治体の雇用や経済などの実情も理解して、反対できない現実そのものを変えていく。

本当の意味での「原発ゼロ」って、そういうことだと思います。


立憲民主党の原発ゼロ基本法案の作成過程を追ったドキュメンタリー 「ゼロへの道」。

──最後に、なにかメッセージをお願いします。

僕は選挙目当てにコロコロと政党を変える政治家が嫌いだった。だから今回、立憲民主党という新しい政党に所属することに、正直最初はためらいがあったんです。でも、多様性のあるまちづくりや子どもたちが安心して暮らせる地域を築くこと、原発や憲法の問題に真摯に自分の力を発揮するには、ここしかないなと思って飛び込みました。

すごく「水戸っぽ的」な言い方に聞こえるかもしれないけれど、新しい時代の茨城政治を導く風は、必ず県都水戸から吹くはずだと信じてます。僕は子どもの頃から、ずっと水戸の人たちに支えられて生きてきた。

伝統ある水戸っぽの誇りを、異なる意見にも耳を傾け、互いに支え合い、つながるように、新しいかたちで受け継ぎ、守っていきたいです。

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玉造順一 JUNICHI TAMATSUKURI

1971年茨城県水戸市生まれ。茨城県立緑岡高校卒業後、茨城大学人文学部社会科学科で政治学を学ぶ。1994年に労働金庫に就職し、8年間勤務。2003年に水戸市議会議員に初当選し、3期務める。議会活動の中で条例づくりやまちづくりに対する専門性を持つ必要性を痛感し、茨城大学大学院人文科学研究科に社会人入学、2009年修了。現在は団体職員として勤務する傍ら、県内のLGBTを支援するNPO活動にかかわっている。