みんなでやろうで松山! 一度は挫折も経験した27歳の挑戦

2018年4月22日

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この春、四国の愛媛県松山市で政治活動をスタートした若者がいる。松山で青春期を過ごし、苦い挫折の経験を克服して政治の世界に飛び込んだ27歳のひがき良太だ。四国最大の都市である松山市も、他の多くの地方都市と同じく、若年層の流出という課題を抱えている。愛媛には今のところ立憲民主党の組織は存在しない。が、彼は故郷である松山を魅力あるまちにしたいとの想いで、4月22日告示・4月29日投開票の松山市議会選挙に立候補する。

*このインタビュー記事は、過去に掲載したものを4月22日に再編集しアップしています。

松山はかけがえのない原点

──自己紹介をお願いします。

ひがき良太、27歳です。松山市の新玉小学校出身で、中高も市内の新田青雲という新設校で過ごしました。その後、高知大学で学んで、民間の銀行で働くうちに自分なりのターニングポイントを迎えて政治への想いを再確認し、議員の秘書を経て、今回松山に戻ってきました。

──生まれも育ちも松山なんですか?

正確には、もともと生まれは松山なんですが、家族が転勤族だったので、小学校までは転々としていました。それで物心ついてから松山に戻ってきたのが小学校6年生の頃。でも、祖父母の実家も松山だったので、松山はみずからのルーツというか、引っ越してくる以前から帰省のたびに訪れてはいました。

──どんな子ども時代でしたか?

実は松山に越してくるまでは引っ込み思案なところがある子どもだったんです。松山への転居を機にどちらかというと活発で、明るいタイプになった気がします。きっかけはサッカーで。越してくる前、僕はたまたまその地元の強豪チームに所属して鍛えられていたので、松山に越してきて地元のチームで普通にプレーしていたら、周りからすごく評価されたというか、必要とされたんです。子どもの僕にとっては重要な変化でした。自信もついて、のびのびするようになりましたね。だから、松山に引っ越してきたこと自体が、自分の人格形成にとって大きな事件だった。そういう意味でも、松山はかけがえのない僕の原点です。

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──中高時代は新設校で一期生として過ごしたと聞きました。

今振り返ると面白い環境でした。体育祭にせよ、文化祭にせよ、合唱コンクールにせよ、新設校だから前例がひとつもなかったんですよ。なにをするにしても、生徒も保護者も教師も一緒になって、本当に手作りで、一からつくってかなきゃいけなかった。大変だったけど、そのおかげで、卒業する頃には「この学校の伝統を作ったのは俺たちなんだな」と感慨が湧きました。

──その頃の経験で得たものは?

うちの学校は校則がなかったんです。生徒の自主性を重んじる校風で、髪の毛を染めたらいけない、とも、ピアスをしたらいけない、とも言われなかった。でも、自由だからこそ、一人ひとりが自分の行動を自分で律するというか、ひとつの行為が社会的な規範に合ってる、合ってない、というのを自力で考えないといけなかった。自分で考えて、自分で責任をもって動く。その力がものすごく身についた6年間だったなと思います。

地域の家々を一つひとつ回る政治家の姿に衝撃をうけた

──高知大学ではどんな風に過ごしましたか?

いたって普通の大学生だったと思います。ただ、若い頃に苦学生だったらしい父に、大学で勉強しているあいだから、きちんとアルバイトをして自分で生活費を稼ぐくらいの姿勢でいなさい、という方針を出されました。それで、焼肉店でアルバイトしながら大学に通って。でも、やっぱり若いですからそこまで計画的にはなれず、月末には食費に困ることもありましたね(笑)。それで、近くのお寺にご飯を食べさせてもらったりしていました(笑)。

──大学時代に政治学を学んだそうですが、最初から政治に関心があったんですか?

いえ、最初は政治のコースと地域経済のコースで迷っていました。でも、ふとした気持ちで応募した議員インターンでの体験で、ぐっと政治の方に関心が湧きました。

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──どういった経験でしたか?

それまで僕は、政治って小難しそうで、一部の頭のいい人がつくっていくものなんだろうなって思っていたんです。けれど、議員インターンでお世話になったある県議会議員の方が、午前中から一軒一軒地元の家々を回るんですよ。そして、インターフォン越しに「地域で困っていることはありませんか? あったら教えてください。力になります」って。一人ひとりに寄り添う姿勢で、生の声を聞いて回っている姿に衝撃をうけたんです。僕も政治家への想いが強まりました。ただ、その県議会議員の方からは、「ちょっと待ちなさい」と。

──というのは?

つまり、一度も民間を経験せずに、ストレートに政治家になってはいけない、と言われたんです。「普通に会社に勤めて、そこで初めてわかることがたくさんある。みんなが日々の暮らしの中でぶつかる壁をひとつも経験せずに、ただ政治家になって、いったいお前に何ができるんだ」と。まずは歯を食いしばって、いろんなことを経験してきなさい、そんな言葉をかけてもらいました。

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みずからの壁にぶつかった銀行員時代

──そうして就職した銀行で、まさに壁にぶつかって挫折したと聞きました。

そうですね。今から思うと自分はとても未熟でしたから、あの挫折は必然だったと思います。地元である松山の地域経済に貢献したいとの想いで銀行に入ったのですが、その気持ちが空回りしていた状態でした。

──詳しく聞かせてください。

就職したての僕は、気持ちばかりが先走って、仕事をまっとうする責任感や使命感が足りてなかったんです。そのうえ、仕事がうまくいかない焦りから、人間関係に悩むようになって。家族や周囲の友人にも相談できずに、ひとりで苦しんでいました。学生時代から本を読むのが好きで、年間150冊くらい読んでいたんですが、気づいたら月に1冊も読めない状態になっていて。プライベートでも何もする気が起きないというか、心から笑うこともできなかった。ただ、そうして苦しんでいた時、厳しく、温かく見守ってくれる上司に出会って。自分なりに仕事の大切さを学んでいくうちに、少しずつ状況も好転し始めて、最後にはとても充実した日々を過ごさせてもらいました。

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──つらかった時期は誰かに相談はしましたか?

いえ、まったくできなかった。両親にも相談できなかったし、友達にもできなかったし、同僚にもできなかった。自分の弱いところを周囲に見せることに抵抗があったんです。とくに両親に対しては、きっと僕がつまづいていることを伝えたら、悲しむだろうなって考えが先に来ちゃって。「仕事? 楽しいよ」って嘘をついてしまっていました。自分がうまくいってないことを、誰かに気づかれるんじゃないかって怯えていたんです。けれど、最初一見すごく怖く見えた先輩が、丁寧に仕事のやり方を教えてくれて、僕の気持ちをくみとりながら指導してくださって、その安心感がすごく大きかったです。やはり、人間って信頼できる人がいるだけで、すごく変わるんだなって実感しました。

──そこから政治へチャレンジしようと決心した理由は?

自分が回復して、元気に仕事にはげめるようになってからふと、同じように誰にも相談できずに苦しんだり、精神的にまいってしまっている若い人って、きっと多いんじゃないかって思ったんです。僕はたまたまいい上司に恵まれたことで、自分の置かれた苦境を克服できた。けれど、抱えている問題を誰にもシェアできない、そんな若い世代はきっと多いんじゃないかと考えました。自分自身が壁にぶつかり、挫折したからこそ、同じ世代の若者のためにできることがあるんじゃないか、そんな想いに駆られました。

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4歳の時に幼い妹を難病で亡くしている。記憶はぼんやりとしかないが、10代の頃から悩みがあると必ずお墓に相談に行く。

松山が抱える、地方都市ならではの課題とは?

──政治活動をスタートするなら松山で、というのは決めていたんですか?

それはもう。絶対に松山。会社を辞めた後、関東圏である国会議員の方の秘書として働いて、本当にかわいがっていただいたんです。その時の経験はいまでも僕の大事な核になっています。でも自分が政治活動をスタートするなら、松山以外にあえりえないと思ってました。子ども時代からずっと、一度進学で離れましたけれど、働きだしてからも、人との絆、人とのつながりというものを教えてくれたのは松山です。街を歩いていると、ここで出会った大切な人たちの顔が何人も浮かぶんです。

──松山の抱える課題は何だと思いますか?

なによりもまず、若者が街を出て行ってしまうことです。もちろん、地元の産業や雇用だったり、大学や教育の機会だったり、簡単には解決できない環境的な条件もあるとは思います。でも、実感として僕の高校の同級生のうち、3分の2くらいが、進学や就職、結婚や子育ての場として松山を選択せずに、大阪や東京といった都市を選んでいます。

──ひがきさん自身も、政治の勉強をするにあたって関東にでたという話がさっきありました。

そうです。これは僕自身の経験でもあるんです。僕は地元でいったん就職はしましたが、政治の下積みをしたいと思った時、やはりいったん関東圏まで出なければいけなかった。それはすごく悔しい気持ちです。松山は若い人にチャンスがあまりない。すくなくともそう思われてしまっている。

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移動中は、思い出のある場所に差し掛かるたび、子ども時代や銀行員時代のエピソードを語ってくれた。

──若年層の流出は、松山だけでなく、東京や大阪といった大都市圏以外の地方都市に共通する課題です。

やっぱりどんな地域でも、若い人たちが下支えすることで地域経済、地域コミュニティがしっかりしていく。現状、僕と同世代で松山に残って何かやりたい人が減っていることに危機感を抱いています。もちろん簡単に解決できる問題ではないです。しかし、僕が現在27歳というこの年齢で、「松山をおもしろくしようで!」と呼びかけることで、空気を変えていきたい。いまは松山を離れているかつての同級生が「帰ってきたい」と思うようなまちづくりをしたい。若い世代を引きつける魅力をつくりだすことは、松山全体の活気にもつながると思います。

──逆に松山の魅力ってなんでしょう?

やっぱり都市としてのコンパクトさ、気候の温暖さからくる住みやすさじゃないかなと。観光の観点からいっても、歴史的な建造物もたくさんありますし、日本最古の温泉と言われる道後温泉や伊予鉄の路面電車がある。資源は豊富なはずだから、その魅力をもっと引き出したい。「結婚して子育てするなら、ビジネスをするなら、なにか面白いことをするなら松山だ!」って、そう思われるくらいになりたいです。

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命を守ること、そしてまちづくりのビジョン

──具体的な部分で何かありますか?

僕が心配しているのは、とくに道路や横断歩道などの交通インフラの老朽化です。これは命にかかわる問題です。実は僕の身近で、知人のお嬢さんが交通事故で亡くなった事件があったんです。トラックのドライバーは、何度もその道路を使っていたんですが、横断歩道を示す白線が完全に消えていて、事故が起きるその日まで、そこが横断歩道だと認識していなかった。地方都市は、どうしても車社会です。松山はそこに路面電車も走ってる。そういう意味で、人の命にかかわるインフラの老朽化には、しっかりと対応していきたい。もっとピンポイントでいえば、県立中央病院前の道路。あそこは現在片道一車線です。重篤な患者が救急車で運ばれるときに、渋滞していたら救急車が入れない。小さなことかもしれないですが、そういう一つひとつのことを積み上げて、安全な街にしていきたいです。

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──まちづくりについてビジョンは?

まちづくりの基本って、歩く人の目線だと思うんです。車に乗って出発地点から目的地へまっすぐ向かう目線じゃなくて。松山市内のあちこちに、きちんと消費行動まで考慮した導線を描きたいですね。街を歩いていたら、色んなところで思わぬ人や場所に出会って、そこで買い物をしたり、食べたり飲んだり、文化的なスポットや小さなコミュニティがある…そんな風にできたらと思います。でも…うーん。

──なにか?

正直にいって、まちづくりのビジョンって、僕がひとりで考えてるだけじゃ限界があると思うんです。そもそもひとりでビジョンを描いて掲げること自体にあまり意味がない気がして。僕がまちづくりをするなら、もっと色んな人たちの知恵を借りたいです。いま僕と同世代で松山で頑張っている人たちと連携したい。僕のビジョンを実現させてくださいというよりは、ビジョンづくりからみんなで知恵を出し合って、話し合って…というところから始めたらきっと面白いものができるんじゃないかなと。

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地元で政治活動をスタートしてみて

──実際に故郷である松山の街頭に立ってみての感想は?

街頭に初めて立った時は、正直めちゃめちゃ怖かったです。緊張して足も震えました。でも、毎日続けていくうちに、手を振ってくれる方や、じっと僕の言葉に耳を傾けてくれる方がちょっとずつ増えてきて。まだまだ勉強中ですが、手ごたえというか、こうして一歩ずつ進んでいくんだな、という実感はあります。

──家族や同級生の反応はどうですか?

頑張れ!って応援してくれています(笑)。でも逆に独りよがりな政治家にはなるな、と釘を刺されました。「みんなの話をきかない政治家にはなるなよ」って。まだ若いし、きっと実績よりは、挑戦することに意味がある年齢です。色んな人の手を借りながら、思いっきり挑戦して、そういう姿勢がひとつのメッセージになるんじゃないかって思ってます。

──事務所にお母様が入っているそうですが。

はい(笑)。今回母親が事務所に入ってくれて、サポートしてくれています。僕が人生の中で、苦しい時や大変な時、やっぱり一番支えてくれたのがオカン。家族のあり方や親子のあり方は人それぞれですけれど、僕にとっては、やはりオカンの存在はとても大きいです。

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事務所にはイメージカラーの黄色いジャンパーを着た母親がいた。

──なぜ立憲民主党を選んだんですか?

僕の政治への関心のきっかけは、学生時代のインターンです。その頃から、一人の優秀なリーダーが発信して政治をやるスタイルはもう古いんじゃないかって考え始めていた。だから、去年の立憲民主党の結党の時からもう、ここしかないな、と。迷いはなかったです。

──とはいえ、愛媛県には立憲民主党の地方組織はありません。大変ではないですか?

不安じゃないといえば嘘になるけど、これってすごい面白いなとも思うんです。松山においては、党のメンバーは僕一人だけだし、まだまだ若いし、大した能力もないと思う方もたくさんいらっしゃる。でも、それは日本のいたる所で若者が投げかけられている視線でもある。僕は一度、独りよがりにもがいて失敗した経験がある。その意味で、僕が何もないところから、周囲のみんなと力を合わせて活動することで、松山にある立憲への期待のエネルギーを引き出すきっかけになれればと思ってます。

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活動の足は荷台にスピーカーをくくりつけた自転車。枝野代表の紹介テープを流すこともあるが、自分の想いを自分の言葉で伝えることに重きを置いている。

──じゃあ立憲民主党の「ボトムアップ」にそもそも共感があった?

「ボトムアップ」って、柔らかい言葉でいうと「みんなでやろうで!」って言葉に聞こえるんですよ。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんお母さん、そして僕ら若い世代も、みんなでやろうって。そのスタンスがきっと大事。その気持ちを共有できる仲間と松山を盛り上げていきたいです。

──最後に、松山市民の方々にメッセージを。

10年後、20年後、30年後と考えたら、僕らの世代が、今ここから松山の未来を真剣に考えていかなきゃいけない。将来、「俺らが松山を引っ張っているんだぜ」と、地域の先輩や子供たちに胸を張って言えるような松山にしていきたい。みんなで一緒に松山をつくっていこうで!

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ひがき良太 HIGAKI, RYOTA

1990年生まれ。松山市で生まれ、家族の転勤による転居を経て、小学6年生の時に再び松山へ。松山市立新玉小学校、新田青雲中学高等学校卒業。高知大学で学び、愛媛銀行に就職。2015年から国会議員秘書を勤め、2018年から地元松山で政治活動をスタートした。