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2020年5月3日

【憲法調査会】「表現の自由をめぐって~公権力とアートの関係~」オン・ライン・パネルディスカッションを開催

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表現の自由をめぐって~公権力とアートの関係~

 憲法の基本原理である「基本的人権の尊重」のなかでも特に重要な人権である「表現の自由」。昨年の「あいちトリエンナーレ」での展示をめぐる文化庁による補助金の全額不交付決定をはじめ、この間表現の自由が萎縮しかねない事例が相次ぎ、議論が過熱しています。

 立憲民主党憲法調査会では、昨年12月につながる本部(本部長・枝野幸男代表)と共同でパネルディスカッションを東京都内で開催しましたが、今回憲法記念日を前にあらためて「表現の自由」を考えるシンポジウムを企画。新型コロナウイルス感染対策により緊急事態宣言が発令されたなか、「表現の自由をめぐって~公権力とアートの関係」をテーマにオンラインでのパネルディスカッションを開催しました。

※パネルディスカッションの詳しい模様は、Youtubeチャンネルで動画を配信しております( https://www.youtube.com/watch?v=LXRJhpKZa-k&feature=youtu.be)ので、そちらを御覧ください。

 パネルディスカッションには以下5名が参加され、党憲法調査会の道下大樹事務局長が全体の司会を担当、山花郁夫会長がコーディネーターを務めました。

○野田邦弘さん(鳥取大学特命教授)
文化政策学者。あいちトリエンナーレ展に関して、補助金採択に関する審査委員会の委員を務めた。その後文化庁による全額不交付決定後、委員を辞任。

○中尾浩治さん(合同会社アート・マネジメント・しまなみ代表)
「ひろしまトリエンナーレ2020 in BINGO」で、総合ディレクター。実行委員会や企画部会とは別に、展示内容を事前選定する検討委員会設置の方針を県が表明したのに抗議し、3月31日付で辞任。

○柳幸典さん(アーティスト・NPO法人ART BASE 百島(ももしま)ディレクター)
現代美術作家。福島第一原子力発電所事故を取材した『Project God-zilla』は、毎日新聞と読売新聞で年間ベスト展覧会に選ばれた。

○村山悟郎さん(アーティスト・東京芸術大学非常勤講師)
「表現の不自由展・その後」の展示再開を求めて結成された「ReFreedom_Aichi」のメンバー。あいちプロトコルの作成に携わる。

○愛敬浩二さん(早稲田大学法学学術院教授)
 憲法学者。2020年3月末まで名古屋大学大学院法学研究科教授。

 シンポジウムでは冒頭、党憲法調査会会長の山花郁夫衆院議員が、この間の表現の自由をめぐる公権力とアートの関係、特に今秋に初開催の予定だった国際芸術祭「ひろしまトリエンナーレ in BINGO」をめぐっては、県は外部委員会で展示内容を事前に確認する方針を示したことから美術関係者らが反発、総合ディレクターの中尾浩治さんが辞任したことなど事態はより深刻になっていると説明。これに続き、鳥取大学特命教授で文化政策の専門家である野田邦弘さんがあいち・ひろしま問題について簡単な基調報告と問題提起を行いました。

 野田さんは、あいちトリエンナーレ展をめぐっては今年3月23日、(https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/20032301.html)、愛知県側が一定の不備があったこと、安全上の配慮、準備が足りなかったことを認め、今後は国と十分に相談してやっていくと、国のメンツをたてる形で手打ちをしたことで、一部補助金のカットはあったものの交付をするという結論に至ったとして、問題が明らかにされないまま幕引きが図られようとしていると指摘。その後も表現の自由をめぐる事件がいくつも起こるなか、特にひろしまトリエンナーレでは、実行委員会とは別に事前に出展作品が妥当かどうかをチェックする委員会が設置され、これは明らかに検閲にあたり、憲法21条に違反するという議論が起こるなか芸術監督を務めていた中尾さんと、それに続く形で約30人の出展予定者が辞退し、実質空中分解するなか、表向きは新型コロナウイルス感染対策を理由に開催の中止が決まったと概要を報告。「表現の自由をめぐるさまざまな問題が起こり、それが解決されないまま、次の問題がまた起こるということが続いていると考えられる。議論しながら論点を絞り、今後の議論の深まりにつなげていきたい」と呼びかけました。

検閲に該当しなければ何をしてもいいわけではない

 基調報告を受け、愛敬さんは憲法の観点から、「あいちトリエンナーレの事件は1984年の最高裁判決、あるいは学説の通説的見解にしたがうと検閲に当たるというのは難しい。ただし、ひろしまトリエンナーレは、検閲概念を厳しく限定した最高裁判例では難しいとしても、運用の仕方を細かくみれば、学説上は検閲と評価できる可能性があるのではないか」と発言。その上で、「重要なのは、憲法21条2項の禁止する『検閲』に該当しなければ公権力は何をしてもいいという話ではないということ。検閲に該当しないとしても表現行為を規制するのであるならば、公権力の側には正当な理由が必要であり、その規制が表現行為に重大な萎縮効果をもたらすのであれば、『正当な理由』の有無は厳格に審査される必要がある。従って、正当な理由もなしに公金支出をやめるということは本来憲法上許されないはずで、これは検閲に該当するかしないかという問題とは別の問題として議論されるべきだ」との見方を示しました。

 こうした認識を前提に、愛敬さんは以下2つの問題を提起。

 「1つは、私たちがどのような社会に生きているかに関わっている。なぜ日本でこの問題が大きな問題になるかというと、私の理解では、私たちがいわゆる『リベラルデモクラシー』、自由で民主主義的な社会に生きているから。リベラルデモクラシーの下では何が正しいか、何が美しいかを簡単に決めることはできない。なぜなら、一人ひとりの個人が違った利害を持ち、違った価値観を持ち、違った信条を持っているから。

 このような社会においては、何が正しいのか、何が美しいのかということを、公権力者が決めることは許されない。結果として、市民の間の熟議によって暫定的な結論を出すしかないことになるが、市民の間の熟議による決定をするためには、情報がきちんと流通することが大切で、芸術活動に関して言えば、市民が実際にその作品を観られること、芸術表現に触れられることが決定的に重要になる。リベラルデモクラシーの下で芸術活動が繁栄するためには、私たち一人ひとりに作品を鑑賞するチャンスが保障されていなければいけない」

 「2つは、給付と規制の問題。もし表現内容を理由として、その表現を禁止すればそれは憲法21条に違反することは明らかだ。今回、あいちトリエンナーレの対応を正当化する方々は、『これは(特定の表現を)禁止したわけではない。あくまでも公金支出を止めただけだ』とか、『公共施設での展示を止めただけではないか』と言う。この公金支出、公共施設の利用を『給付』という言葉で表すと、公権力が罰則等を使って禁止するハードな『規制』と比べると、『給付』がなくても、表現者は民間のギャラリーを借りるなどして、自前で表現活動ができるのだからいいではないかという考え方が、これらの主張の背景にあるものと推測される。

 しかし、観る側としては、『規制』であろうと『給付』の停止であろうと、その芸術活動を観られなくなることには変わりがない。また、表現者の側から言えば、観てもらえない芸術活動をすることにどういう意味があるのか、という問題が生じる。これは単にお金の問題だけではなく、芸術表現する方々の本質にかかることで、観てもらえない芸術活動をやることはとても難しい。

 作品を観る側と観せる側は相関関係にある。私たちがより豊かな芸術的生活を享受するためにも、芸術家の方々に自由に表現するチャンスを与えなければいけない。そう考えると、簡単に『規制ではなく給付の問題だからお金を出す側、施設を提供する側が自由に決めていい』という簡単な話ではないことになる。

 もちろんすべての表現活動に対して国が助成する必要はないが、日本のように芸術活動の公的施設や公的資金への依存度が高い環境の下では、政府が規制ではなくて給付だからという理由でこれにはお金をあげる、これにはお金をあげないと言い始めると、私たちが観られる芸術表現の範囲が狭まる。それも不幸なことに、芸術的判をする能力も資格もない公権力者の意向に従って、私たちが鑑賞できる芸術の範囲が限られてしまう。

 これは、価値観、利害、信条等を異にする諸個人が、それにも関わらず共に生きて行こうと努力しているリベラルデモクラシーにとって、破壊的な影響を及ぼす。利害・価値観を異にする私たちが価値のある情報と知識に基づいて、『何が美しいのか』、『何が正しいのか』について議論を継続し、少しでも『良い社会』を共に作っていこうとするリベラルデモクラシーの本質に違反すると思う」。

現代アートは政治や社会と切り離すことはできない

 あいちトリエンナーレの問題が起きた時、事務局の方がヒアリングで「表現の不自由展で展示された作品のほかにもなかなかのものがありますよ」「現代アートってそもそも社会風刺などが多いので、政治とまったく切り離すのはありえないのではないか」と話したのが印象だったという山花議員。

 村山さんは、村山さんは、あいちトリエンナーレは、芸術監督の津田大介さんがドイツの芸術祭「ドクメンタ」(※1)を一つの参考にしたもので、政治/社会的なコンセプトを主題とした展覧会だったと述べました。「社会風刺というのは、政治だけではなく、社会構造や地域の中でわれわれが避けているものをまざまざと見せつける働きも持っていると思う」と説明。現代アート作品にみられる特徴としての社会風刺については、「多文化主義が興隆した以降の現代アートは、基本的にアーティスト自身のアイデンティティやルーツ、そして背景などを色濃く反映した内容が主流になってきている。そこでは当然、社会的な矛盾や、それと向き合う個人の実存が主題になり、非常に厳しい社会状況や、鑑賞者に現実を突きつける働き、それに伴う負の感情など、過酷な表現が含まれてくる。すると、表現の自由と、芸術家の痛切な表現とが、激しく衝突する事案が頻発する。それを「表現の自由」で、どこまで擁護できれるのか問題になってきているのだろう」と述べました。

 あいちトリエンナーレでは、作家たちが「表現の不自由展・その後」の展示再開を求めて「ReFreedom_Aichi」を結成し、あいちプロトコルを作成しましたが、これについては、以下のように述べました。

 「2019年の問題を受けて、今後のあいちトリエンナーレがどう運営されていくべきかということを規定するための議定書(宣言/プロトコル)を基本に考えました。文化庁の補助金不交付問題、つまり国との関わりも出てきたので、日本全国の国際芸術祭にとってもある種の汎用性のある文書として活用でき、広がりを持っていくことを期待して作りました。海外からアーティストを招聘する国際的な芸術祭を念頭に、表現の自由に対して日本ではどういう法規範があり、芸術祭に対してどのような理念を持つべきか明文化していった。作成に当たっては、表現の自由と、ヘイトスピーチの制限や禁止をどうバランスを取るかが極めて困難であり、今後の課題になると思います」

※1ナチス政権によって退廃芸術とされたモダンアートの回復、または芸術を破壊した国というドイツの負のイメージを払拭する目的も兼ねて1955年に始まった、現代美術の大型国際展

表現の自由は一つひとつ勝ち取っていくもの

 シンポジウムは次に、広島県初の大規模芸術祭「ひろしまトリエンナーレ2020 in BINGO」に話を進めます。

 「あいちトリエンナーレ以上に問題だ」と警鐘を鳴らす山花議員は、総合ディレクターを務めていた中尾さんにこの経緯、問題意識を聞きました。  

 中尾さんは、今年1月末にアート委員会設置案を提示され、「どう見ても検閲的仕組みだ」と行政の担当者に懸念を伝えましたが、「ほぼ決まりの話」だと言われ、そこから広島県知事と直接話した4月2日までのあいだにいろいろと解決策を模索するも折り合わず、辞任に至ったと、この間の経緯を説明しました。広島県知事からは、「あいちトリエンナーレは芸術振興という目的があるが、広島は芸術祭と観光祭のハイブリッドなんだ」「一流のアーティストは来なくてもいい」といった驚くべき発言があったことも言い添え、4月9日に記者会見を開き緊急声明を発表、自身と、志を同じくするアーティスト約30人が出展辞退を表明したところ、広島県は翌10日、新型コロナウイルスの影響を理由に中止を決定したと言います。

 ひろしまトリエンナーレは、三原・尾道・福山で開催が予定されていましたが、尾道エリアのキュレーションを担当することになっていた柳さんは、「日本の文化政策の問題で、現代美術が持っている批評性、現代美術がどういうものかを行政の側が分かっていない。日本で開かれる芸術祭の多くが観光目的になっていて、芸術が利用されている状況があり、いずれはこういう問題が起きたと思う」と指摘。「こういった問題点のルーツを探ると、小学生の頃からの美術教育、その後大学に至るまでの芸術に対する教育の課程などから語り合わなければいけないぐらい根が深い。私は世界中の芸術祭に参加してきたけれど、その都度問題は起こり、議論は起こっても、それに政治家が介入したり行政が検閲したりすることはない。やっぱりそれは民主主義の成熟度の問題で、日本の場合は民主主義が与えられている感覚はあるのかもしれないけれど、本来、表現の自由や民主主義というのは一つひとつ戦って勝ち取っていかないと、なくなってしまうものであることをこの機会に知ってもらいたい」と訴えました。

不寛容さは、ものの見方を訓練されていないからではないか

 中尾さんが声明文を書くにあたって美術館の館長やジャーナリスト、評論家等に話を聞くと、「どう見てもひろしまのやり方は検閲だ」と口を揃えたと言います。加えて、中尾さんが問題視したのは、あいちトリエンナーレ2019でも昭和天皇の肖像を用いた作品群が問題となった大浦信行さんの作品をめぐって、行政もメディアも本来あるべきさまざまな読み方には目を向けず、「不快」であることと、公金を使っていることしか取り上げないということです。柳さん同様、「一般の市民レベルの教育の問題、議論の問題だ。いろいろな見方をある程度受け入れる、俺は嫌だけど受け入れるというのではなく、嫌だから受け入れない、嫌だから聞かない。これがものすごく強いなとしみじみ感じた。この不寛容さは、ものの見方というものを訓練されていないからではないか。全体の空気を読んでの不寛容であって、いろいろな理論武装もしくは知識があっての積極的な不寛容ではない。そういう意味ではやっぱり、市民社会の根源に突き当たるという気はする」と述べました。

 これを受け、山花議員も「不快だなと表現することは、表現の自由のレベルだと思うけれど、展示をやめろというのは質的に全然違ってくる。質的に違う問題をいっしょくたにして不快である、じゃあ展示するなと言うのは違うと思う」とコメントしました。

交付金は多様性を保つために使われるべきもの

 柳さんは、「公金を不快なものに使うなという意見が多いが、では交付金を使わなかったらいいのかと言えばそういうわけでもない。公というのは多様な意見の人、多様な立場の人が集う一つの空間であり、民主主義はそういうもの。その多様性を保つためにこそ交付金が使われる、公の役目があると思う」と提起しました。

 ひろしまトリエンナーレが憲法的に見て特に深刻である理由として、愛敬さんは「あいちのケースは一旦展示があったが、ひろしま方式になるとそもそも展示されないことになるので、検閲に限りなく近い。一度でも展示されてそれを一般市民に見る機会があったかなかったか。この一点は決定的に重要だ」と説きました。

 村山さんは、ひろしまトリエンナーレが中止になったことに対し、「残念ではあるが、まずはアーティスト自身が不参加をジャッジするのではなく、ディレクターの中尾さんが主導して辞任を判断されたことは良かったと思っている」との考えを明示。一方で、こうした事態に至ったことには、「芸術祭を自分たちが望む形で実現するための活動を、もっと全方位的に行って、政治や行政に関わる人たちに対してのロビイングなど、アプローチの仕方をもっと緻密に狙う必要があると実感した」と述べました。

権利としての表現の自由という認識を持っていないのは大きな問題

 冒頭、問題提起した野田さんは、美術や芸術に対する公的助成のあり方を含め、それぞれの意見表明を受け、「芸術、現代アートはわりと小難しく、ふつうの国民の皆さんにはなかなか分かりづらい。教育のなかで芸術とは何かを、現代アートを含めてきちんと考える、教える、共に学んでいくことが必要だ。表現の自由をめぐっては、世界でも自国ファースト主義とか、新自由主義的な価値観が蔓延していくなかで、人々の寛容性がかなり低下し、さらに、コミュニケーション手段としてSNS、特にtwitterなどで自分たちと意見が合う人たちだけで盛り上がるという傾向がある。炎上が機能した背景にこうした問題があるのではないか」とコメントしました。

 加えて、野田さんはNHKが5年に1回実施している憲法上の権利に対する国民の認識に関する調査で、1973年には49%の人が表現の自由を憲法上保障された権利だと考えていたものが、2018年にはこれが30%に低下していることに触れ、「権利としての表現の自由という認識を持っていないのは大きな問題。教育できちんとやっていかなければいけない。ものの生産を中心としていた製造業の時代から、これからは知的財産を作り出し、それを活用していく『創造経済』の時代へと転換していくなか、芸術家に限らず、価値観を多様化していくことが大事だ」と指摘。アートに対する公的支援のあり方については、アームズ・レングス・ルール(※2)的な制度を活用し、専門家に委ねるという考え方をとるしかない。日本では官僚特有の価値観があり、なかなかうまくいかないが、社会とアーティストの通訳を果たす、社会に対してはアーティストを代弁し、アーティストに対しては社会を代弁する、そういう意味での文化政策の専門家が必要だ。そうすると、多様なアーティストをバックアップする世論、こうした問題が起きたときに憲法上の権利だから大事だという大きな世論が巻き起こるようになってくる。そのためにはメディアが果たす役割、政党が果たす役割は大きい。多岐にわたる問題を含んでいるが、これから日本が再生して、コロナの後にどういう国にするかという議論に、この論点は必ずつながってくる。そうしたスケールのなかで考えていきたい」と総括しました。  

 憲法学者の立場から愛敬さんは最後に、多くの参加者が言及した「寛容」が重要だとあらためて強調しました。「ある意見や表現を不快だと思っても、他者にとっては何か大切な価値があるのではないかと我慢して耳を傾け、冷静に鑑賞し、その上できちんと自分の意見や評価を述べるというのが、リベラルデモクラシーの下で生きる私たちに期待されている人間のあり方だと思う。このあり方を一言で表せば、『寛容』ということになる。冒頭で述べたとおり、私たちは幸いなことに、皆が同じ価値観を持って同じものを美しいと思う社会に生きていない。『豊かな生活』のために芸術が必要ならば、私たちの生きる社会に相応しい議論のあり方を探究する必要がある。最後に強調したいことは、『憲法21条2項が検閲を禁止しているから、愛知や広島の事件は問題だ』と考えるのではなく、『私たちの生きる社会にとって、愛知や広島の事件は問題だから、憲法21条は表現の自由を保障し、同条2項は検閲を禁止している』と考えるべきであることだ」と締めくくりました。  

 終わりに、山花議員は「美術に限らず専門的な分野に対して尊重するというのが大原則だと思う。われわれも気を付けていくことと、そうでない動きがあったときにはしっかりと声を上げていきたいと思う。今日は長時間にわたってありがとうございました」と発言。道下議員も「多面的にものごとをとらえること。そこには寛容さが必要であり、専門家のみならず子どもたちの教育も含めた取り組みが必要だと受け止めました」と感想を述べました。

※2 原義は「親しいもしくは近い関係を避けること」(オックスフォード辞書)。商取引や競争関係における当事者間の公平性を担保するためのルールで、所管官庁は「手の届く範囲」でコントロールすべきであるという考え方。政府や自治体の文化支援においても適用されている。「あいち宣言(プロトコル)」でも明記された。