16歳のときに自殺未遂で車いすユーザーになった豆塚エリさん。病院で治療を受ける中、人に大切にケアされる経験をしました。ここから、豆塚さんは、自分自身の存在を肯定していくきっかけをつかんでいきます。

大人こそ楽しく生きて

 小さい時に親から「弁護士になれ」と言われ、そのためには人一倍努力しなければならないという刷り込みがあって、うきうきしたり、楽しかったりすることは悪いこと、仕事というのは、もっと苦しくてつらいものだと思っていました。親や学校の先生を見ていても楽しそうじゃないし、「大人ってこういうことか」みたいな。子どもの時でさえこんなにつらいのに、大人になって自分の好きなこともできなくなったらもっとつらいなとか、そんな風に思っていましたね。だから大人には楽しく生きてほしい。生きていることが楽しいということをちゃんと子どもたちに伝えないと。大人が生きづらかったら子どもも生きづらいと思います。

 大人がやりたいことをちゃんとやらないといけない。結局、我慢したらその我慢は下に行くんですよね。親が我慢していたら子どもに行く、みたいな感じで。社会全体が我慢、我慢となっていき、そうすると弱いところにしわ寄せが行くと思います。

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私が私の味方になる

 好きな人と一緒にいると良い自分になれたりするじゃないですか。だから好きな人、価値観が合ったり、合わなくても一緒にいて楽しいとか、一緒にいる自分が好きになれる人のそばにいることが何よりも自分を好きになれるコツなのかなと、今は思っています。親とは、距離を置くことが大事だと思います。母親も父親もそれぞれの人生ですから、「家族だから」というのは違うと思うんですよ。結局、ともすれば支配と服従の関係じゃないですか、血縁というのは。

 支配的になってしまったりとか、逆におどおどして服従してしまったり。そういう関係をやめる。距離を詰めることがいいことではなくて、楽に付き合える、対等に付き合える程よい距離感を探ることがいいのだと思います。

 何よりも、自分は正しくはいられないし、強くもないし、期待にも応えられないことを認めるしかないですね。若い時はそこにいちいち落ち込んでいましたが、ようやく「でも、しょうがないな」と思えてきた。これが私だし、それを受け入れてくれる人たちと付き合えばいいのかなと。私が私の味方になってあげないといけないなと思いますね。

 全く傷つかないような環境を選びとることは無理ですが、多様な人と触れ合うこと。「ちょっとこの人苦手だな」とか「価値観が合わないな」とかいう人とはうまく距離を取りながら、だからといって嫌いとか、排除はしない。時間はかかりますが、そういう場所をどうにか見つける作業はいるのかなと思います。

何者でもなくていい所に身を預ける

 自分の居場所を見つけるには、自然に触れることが一番簡単かな。自然って誰のものでもない、誰のものでもないけれど、ちょっとみんなのもの、共有の、公共のもの。そういうものに身を預ける時間がいるのかなと思います。人や社会、言葉から離れること。言葉以外の概念に触れる時間を取れるようにするといいのかなと思います。

 なるべく誰のものでもない場所に行ってほしいですね。常に自分が何者かじゃないといけないと、どこどこの学校の生徒とか、何々さん家の子どもとかではなく、何者でもなくていい所に身を委ねるというか、そういう時間をなるべく作ってほしいです。

体が生きたがる

 人が狂ってしまう時って、多分言葉の世界にとらわれていってしまうことだと思っていて、要は生き物であること忘れちゃうんですよ。でも言葉は、イメージであって幻想なんですよね。だから現実ではなかったりする。それこそ「体が生きたがっている」というのは、言葉の外側にある。例えば私は「自殺は罪」だとか、障がい者になった時に「これは罰なんだ」とか「神様からこの体で生きろと言われたんだ」とか、そういう風に捉えがちでしたが、「体が生きたがっている」というのは、宗教的な善悪だとか法律だとかの外側にあること。そこを忘れたらダメなんだと思います。

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豆塚エリさん(詩人)「とにかく生きてほしい」<1>

豆塚エリさん(詩人)「とにかく生きてほしい」<3>