16歳のときに自殺未遂を起こし頸髄を損傷、車いすユーザーになった豆塚エリさん。障がいを背負ったことを機に、「体はきっと生きたがるし、死を怖がる。それをそのまま味わう」と自分の命への考え方が変わったと話しています。「消えたい」「死にたい」と毎日思っていたという豆塚さんが、どのように自己肯定感を獲得していったのか、話を聞きました。
居場所がない
いわゆる希死念慮を持ち始めたのは小学校5年生の頃で、両親の不仲が何よりも大きくて、自宅に居場所がないと感じていました。中学生の頃から自傷行為を始めて、深夜徘徊もしていました。当時は心療内科、精神科が身近になく、自分自身も甘えだと思っていました。周りからも、例えばリストカットするのは「気を引きたいからだ」と言われ、自分でもそうなのかなと。だから、そういう自分がすごく嫌でした。でも反面、自傷行為をすることで生きている実感を得ている自分もいました。
高校生になった時に両親が離婚し、母がシングルマザーになりました。将来二人の生活を支えたいと進学校に入学したものの、勉強はなかなか追いついていかない。家に帰れば家事や、親の仕事の愚痴を聞いたりとヤングケアラー的な部分もあり、自分自身がいっぱいいっぱいになっていました。朝起きられなくなったり、全く体が動かなくなったり。それでも甘えだと思っていましたし、親からも「何を甘えているんだ」と責められました。もう本当に居場所がないというか、生きている価値がない、死にたいと思っていました。コップの中に水が溜まっていく感じで、ある朝、起きられず学校に行けなかったことを母親に咎められて、「あ、もう無理だ」と。その勢いで、行為としては本当に突発的でした。
人に頼ることは悪くない
昏睡状態がずっと続いて、目覚めた時には体が動きませんでした。本当に何もできない、寝たきりの状態で下の世話まで看護師さんが全部やってくれていて、ご飯も食べられないので全部点滴による栄養補給で、全くの無力になってしまった。でも、その時初めて私は人を頼れたんですよね。ずっと「強くあれ」と、競争社会の中で、学校でも家でも負けないようにと育てられてきたので、人に何かを頼ることは迷惑なことだと思っていました。
最初は、下の世話まで全部やってもらうことが、私にとっては屈辱で、嫌なことだったのですが、ケアワーカーと呼ばれる看護師さんや介護士さんは全然嫌そうではないんですよね。利害は関係なく、頼ることを肯定的に受け止めてくれた。悪いな、申し訳ないなと思いながら「ありがとう」とか「すみません」と意思表示をすると、むしろすごく嬉しそうにしてくれた。そこで初めて人に頼ることはそんなに悪くないことなんだと思えた。福祉やケアというものと初めて接して、楽になっていくきっかけを得たと思います。
ずっと自分の取柄は「勉強ができる」とか、「何かが得意である」とか、能力主義的な部分でしか評価をしてもらえないと思っていたので、何かができないことへの恐れがすごくありました。画一的なものの価値観しかなかった。学校と家の往復でしかない、本当に閉鎖的な場所にいて、とにかく人には頼らない、迷惑をかけない、自分のことは自分でやるという呪いにかかっていたなと思います。
あなたはどうしたかったの
時間はかかりましたが、考え方が変わっていったきっかけは障がいを負ったことだと思います。身近でケアしてくれる人たちが、保護されるべき未成年でありながら、ちゃんと一人前の、人格のある人間として扱ってくれた。高校生というのは、「自立って何だろう」「将来どうしよう」と考える時期だと思うのですが、「豆塚さんはどうしたかったの」「何がしたかったの」と。とても考えさせられましたし、初めて大切にされている、尊重されていると感じました。
「高校に戻って大学に進学したい」と言うと、ケースワーカーさんたちが、そのためにはどうするのがいいのか、最善の方法を一緒に模索してくれました。
結局、学校側は一切取り合ってくれず、自主退学という形で退学になりましたが、健常者の時から本を読んだり、文章を書くのが好きだったので、それを続けようと思えました。
職業訓練に通っている途中に体を壊して入院し、病院のベッドの上で苦しみながら書いた小説がたまたま太宰治賞の最終候補にまでなった。それが23歳の時でした。