東日本大震災・原発事故から 10年を超えて それぞれの「あの日」から
小熊慎司 衆院議員(福島県4区)

 当時参院議員だった小熊慎司議員は、山形県から車で福島県に戻る途中で地震と遭遇。翌日から車に寝泊まりしながら、福島、宮城、岩手そして青森県まで被災地を巡り、被災状況を見て廻ったと語る。東日本大震災から10年を迎え、東日本大震災復興副本部長の小熊議員に福島の復興再生について聞きました。

被災から1週間で、福島と他県で復旧に差が生じてきた

――震災当時について 山形県庁で統一地方選の公認候補者の発表をした後、車で移動中に震災に遭遇したのです。揺れを感じ車外に出たところ、停電で信号機が消え、建物から人が大勢出てきていました。とりあえず懇談会を予定していたホテルまで行ったのですが、鉄筋コンクリートの建物なのにミシミシと鳴り、倒壊するのではないかと感じたくらいの揺れでした。直ちに全ての予定がキャンセルになり、私は地元の福島県に戻ることにしました。

 一旦仙台市にいる党関係者のところまで送ってもらい、そこから車で国道4号を南下し福島に向かいました。途中で目にする信号機は全て消えていました。夜中になってやっと福島市内に入ることができ、すぐに県庁に向かったところ、県庁舎は被災し、知事は隣にある自治会館に移り、そこで対策会議を開いている最中でした。私は県庁職員の方に名刺を渡し、「こういう緊急事態ですから、私にできることはお手伝いさせてください」と伝え、近くのホテルで待機し、廊下で仮眠をとった後に自宅に戻りました。

 翌日から元県議とともに車に寝泊まりしながら、福島、宮城、岩手そして青森まで被災地を巡りました。震災から1週間、10日経った段階で、すでに福島とそれ以外の被災地域の差を感じました。宮城や岩手ではすでに震災瓦礫の量が推計され始め、ラジオで報じられていたのです。福島では、原発事故に伴う混乱が続き、そんな話は全く聞きませんでした。

民主党主導の「各党・政府震災対策合同会議」は有効だった

――当時の政府与党の対応について 未曾有の災害でしたから、どの党であっても、あれ以上の対応がとれたかと言うと不可能だったと思います。そうした中、当時の与党・民主党が超党派の会議体を設置し、全党一丸で震災対応に当たったことはとても評価しています。被災地から数週間後に国会に戻ったところ、民主党の岡田克也幹事長が座長になり、与野党で構成された「各党・政府震災対策合同会議」を設置しました。私は当時所属していたみんなの党を代表して出席し、被災地で収集した情報や政策を発表させていただきました。その提案の数々が取り上げられ、結果を出すことができました。超党派での震災への対応はとても良い取り組みでした。この経験があった私は、昨年、新型コロナウイルス感染症対策の一環として野党の意見や国民の声を政府与党に伝える会議体の設置を提案し、それが今の政府・与野党連絡協議会として結実しました。

 ただ、もう少しうまくやってもらいたかったことがあり、それは情報を扱うエリートパニックの問題です。エリートパニックとは、本当のことを言うと国民がパニックを起こしてもっと状況が悪くなるのではないか、という思考のことです。エリートパニックに陥った結果、為政者やエリートが情報を後出ししたり、コロコロと変えたりすることにより、被災者に余計な不安を抱かせ、不正確な噂や推測が広がってしまうことです。

 アメリカのスリーマイル島原子力発電所事故の時に指摘されましたが、正しい情報を出すことによって、住民が適切に避難し、正しく行動できるという事例があります。ところが東日本大震災では、東電にも問題があったがために正しい情報を掴めなかったのかもしれませんが、政府からの情報の混乱により浪江町の皆さんは避難所を何回も変わることになりました。為政者が、正しい情報を伝えることによって、正しく導くことができれば結果的に混乱は起きないのです。本来そのはずなのですが、エリートは逆に、「住民がパニックをおこすのではないか」と恐れてしまい、正しい情報伝達ができなかったのです。正直に情報を語ってもらうことが本当に重要だと思います。

人災だからこそ、東電福島第一原発事故災害を風化させてはいけない

――福島の復興、再生に向けて 一日も早い復興を目指しました。同じものが復旧しまた新しいものが作られるとしても時間を掛けてはいけない。時間が経ってしまえば色々な意味で心が離れ、決断が変わってくる。復興のスピードを上げなければいけないとの思いで取り組みました。

 元々、東北全体が人口減少の顕著な地域だったので、これに拍車がかかってしまうのではないかという推測を立てて対応しましたが、残念ながら良い結果を出せませんでした。復旧に関しても、元々あったものよりも規模が小さくなってはいけないと、大きな決意を持ってインフラを整備し直したのですが、人口減少が進み、そうしたインフラの維持・管理が困難になってきています。復興庁は存続しますが、今後は復興予算が大幅に減りますので、完成した物の後年度負担をどう緩和していくのかが課題の一つです。

 福島県では、東電福島第一原発事故による分断の問題が深刻です。例えば、検査した農作物であれば安心という人もいれば、検査を通っても福島の食材は食べたくない人もいます。帰還困難区域の学校が再開し、「帰ってきてください」と呼びかけても、「帰りたくない」と言う人もいます。同じ街、地域、家族の間でも意見が分れています。これは決してその人たちの責任ではなく、東電福島第一原発事故があったからこその意見の違い、地域の分断になっています。

 今後どのようにして福島を復活させていくのか、東電福島第一原発事故の処理水や廃炉についても、意見が分かれています。このような分断が東電福島第一原発事故の大きな罪のひとつです。これは何十年も続いていきます。形あるものは戻せたとしても、命と心の傷や失ったものは戻りません。これこそが一番大きな問題です。そこにいかに寄り添えるか、これから特に意識していかなければならないと思います。

 また、風評被害も続いています。これに対して東京電力は、相当の因果関係がなければもう補償をしません。現在コロナ禍により全国的に物の販売が困難となっています。様々な要因が経済に影響を与えますが、福島県ではそれだけではなく、東電福島第一原発事故による風評被害の影響があります。全国的にはインバウンドによる外国人観光客の増加もありましたが、私共福島県では全国平均の3割程度の伸びしかありませんでした。そういう意味で、ハードも大事ですが、ソフトの復興、人間の復興、心の復興をより意識していくステージにあると思います。

 私は災害発生時から、『同情心から福島県の物を買う、食べるではなく、おいしいから買う、良いものだから買うというのが本当の復興です』と皆さんに申し上げてきました。福島県の魅力が、特別扱いではなくバイアスがかからずに伝わることが、本当の風評被害対策だと思います。例えば福島県の旅番組や福島県の食物のレポートなども報道していただきたいです。福島県の米や食品はいまだに厳重な検査を行っています。胸を張ってお薦めできるものです。同情ではなく、他の地域と競い合わせてほしいと思います。

 東電福島第一原発事故はいまだに継続中です。それでも全国の一部で残念ながら風化が始まっています。時が経てば他にもさまざまなことが起こるわけですから、記憶が薄れることもあるかもしれません。ただし、被災地の人間が声を上げて、風化を防がなければなりません。

 私の地元では、150年以上前の戊辰戦争の話が今でも語られます。それは恨みを語っているのではなく、戊辰戦争は必要のない戦争だったのだから同じことが二度と起きないよう伝えていかなければいけない、と、私たちは考えているのです。その意味では東日本大震災、東電福島第一原発事故災害も100年も200年も語っていかなければなりません。震災から10年を経た今、私は強くそう思います。特に、東電福島第一原発事故は人災という側面もあります。風化させないようにあらゆる人が語り部となって、この悲劇を二度と起こさないよう、後世に伝えていくことが重要だと思います。

東日本大震災復興に対する34項目の提言