東日本大震災・原発事故から 10年を超えて それぞれの「あの日」から
岡田克也 衆議院議員(三重県3区)
未曽有の災害時に与党幹事長を務めていた岡田克也衆院議員。発災直後から官邸の菅直人総理と協議し、復旧復興を迅速に進めるため、国会における与野党の協力体制構築に最大限尽力したという。復興財源を確保するために公約の見直しなどにも取り組んだ背景や今後の復興再生にかける思いを聞きました。
野党との良好な関係を築くことが最大の仕事
――被災時の様子、総理との協議について 議員会館の事務所でスタッフと話をしていた時に被災しました。揺れの収まりを確認し、そこから党の地震対策本部の設置を指示しました。菅直人総理とも協議しました。主に野党対策についてです。前年の参院選で多数を失っており、自民党や公明党との信頼関係を築き、国会を上手く回すことが私の最大の任務でした。野党の協力がなければ、法律1本通らない状況でしたから、震災対応の最初の仕事は、野党と良好な関係をしっかりつくることにありました。菅総理と相談し、震災当日の夜に与野党党首会談を官邸で開き、各党幹事長にも出席してもらい、震災対策をスタートさせました。
与野党関係なく、良い意見を積極的に取り入れた
――「各党・政府震災対策合同会議」を設置した目的、実際の運営について 野党の皆さんが政府にきちんとつながっている状況をつくらなければいけなかったのです。そういうルートがなく、各党がバラバラにさまざまな要求をすれば、政府が非常に混乱してしまいます。それで自民党や公明党、そのほかの野党にも入ってもらい、「各党・政府震災対策合同会議」を設けました。これで与野党と政府が一本でつながりました。
メンバーは、政党側は幹事長クラス、政府側は担当大臣、官房副長官、それに省庁の局長クラスでした。その下に実務者会議を作り、各党の実務に詳しい議員に集まってもらいました。私は幹事長でしたが、必ず出席していました。実務者会議は連日開き、野党からいろいろな要望や意見を聞きました。そして翌日の会議では、政府側からフィードバックしてもらうということを繰り返しました。こうした意思疎通は、国会運営の上で重要だと考えました。
私たち与党は聞くことに徹しました。かなり厳しい発言をする議員もいました。特に被災地選出議員の一部にかなり感情的な態度を表す方もいて、会議運営はなかなか難しい面がありました。それでも自民党や公明党から総じて建設的な意見をもらいました。私たちは、与党の経験が短かったですから、良い意見であれば、積極的に取り入れ、政府にも取り入れてもらいました。大変な震災でしたから、「与党も野党もない」そういう思いでした。
もちろん実務者会議だけではなく、玄葉光一郎政策調査会長、安住淳国会対策委員長は、それぞれにカウンターパートとしっかり信頼関係をつくっていました。私は、自民党の石原伸晃幹事長、公明党の井上義久幹事長とは、震災前から頻繁に会い、政策を遂行するために信頼関係を築いてきていましたので、それを活かせたと思います。自民党の大島理森副総裁ともかなり話し込みました。復旧復興のための法案にしても補正予算にしても、野党から意見を取り入れて作り上げました。参院で過半数がないこともありましたが、これだけの国難でしたから野党の意見に相当耳を傾け、無理も聞き、低姿勢で臨みました。
名を捨て実を取ったことへの批判を甘んじて受ける
――民主党政権の復旧復興の取り組みをどう総括するか 民主党政権はとても真面目でした。復興財源を手当てするために所得税、法人税を増税しました。それから私が中心となってマニフェストで約束した政策の見直しもおこないました。これは野党に賛成してもらわなければいけなかったからです。例えば、野党が「3K」と言って批判していた「子ども手当」は「児童手当」に名称を戻しました。「高校授業料無償化」には、野党提案を受け入れて所得制限を導入しました。全国規模で実施していた「高速道路無料化」実験は、東北自動車道を中心とする被災地域に限定し、他のエリアでは取りやめました。これによって2400億円規模の復興財源を捻出しました。
「マニフェストが守れていない、実現できていない」という批判は、甘んじて受けます。ただ、当時の判断としては、それは与野党が協力するために必要だったし、名を捨てて実を取る形にしなければなりませんでした。政策内容はそんなに変わってないので、苦渋の決断をしたということです。
そのほか、党独自の取り組みとして、地震対策本部のほかに地震災害復旧復興委員会を設けました。とにかくやることが多かったので、委員会を立ち上げ、多くの議員に責任を負ってもらいました。(1)特別立法の検討(2)歳出の見直し(3)復興ビジョンの策定(4)補正予算編成――と課題別に4つのチームを編成し、それぞれのチームが精力的に活動し、提言を取りまとめ、実行に移していきました。
また、若い議員が被災地との連絡役として非常に頑張ってくれたことが印象的でした。政府ベースではなかなか把握できないような具体的な相談事、例えばどこどこの特別養護老人ホームで燃料が足りないとか、ガソリンがないとか、食料がなくなりそうだとか、そういう実情を被災地選出議員、その他の議員が集めて、党本部と政府につなぎました。それを受けて政府が手当てしたり、政府外の組織で対応したりしました。若い議員の中には、被災地の首長の補佐官のように働いた人もいました。
筆舌に尽くしがたい経験をこれからの災害対策に活かす
――今後の復興再生の進め方は現政権とどう異なるのか 東日本大震災に関して、今の自公政権と異なるのは、やはり原発の取り扱いです。私たちは、原発事故で筆舌に尽くしがたい、大変厳しい状況を経験しているわけです。原発の制御が効かなくなったときの怖さというものを身に染みて感じています。今後の復興再生を進める上で、今の政権とは違う結論になるだろうと思います。
それからもう一つ、東日本大震災の経験をこれからの災害対策に活かすことです。同じような大きな地震や津波は、予想される未来の中で十分起こりうるわけです。そこにもっとより重点を置く。今の与党も、いろいろ言ってますが、実は震災対応だけではなくて、公共事業全体を膨らますようなやり方です。それをもっとピンポイントで震災対応に絞っていく――そのことを真剣に考えるべきだと思います。