東日本大震災・原発事故から 10年を超えて それぞれの「あの日」から 野田佳彦 衆院議員(千葉県4区)
震災直後、急激な円高に見舞われ、震災対応とともに円高対策に奔走した野田佳彦議員(当時財務大臣、のちに内閣総理大臣)。復旧・復興にあたっては、財政が制約にならないよう配慮し、予備費の積極活用、補正予算の編成、復興特別会計の導入などを講じたと言います。当時の政策立案の背景や総理大臣経験(2011年9月-2012年12月)から得た教訓などについて聞きました。
急激な円高が震災直後の一番の難題でした
――震災当時の様子について 参院決算委員会に全閣僚が出席している最中に被災しました。衆院議員会館の事務所に一旦寄った後、総理官邸の危機管理センターに入りました。当時、震災とともに深刻だったのが急激な円高の発生でした。3月11日の発災数日後、対ドルで円が1日に5円くらい急伸したのです。確か1ドル81円だった為替レートが、76円くらいになりました。
日本企業が手元資金として円を必要とするだろうという思惑を投機筋が広げ、そのシナリオでマーケットが動き始め、瞬く間に円高になってしまいました。東日本大震災でさまざまな被害が出ましたが、実は日本経済に円高による危機も来そうになっていたのです。
これが震災直後の一番の難題でした。この事態を回避するためにG7各国の財務大臣、中央銀行総裁と協議し、協調介入を実施しました。その結果、円が80円台に戻り、胸をなでおろしたことを覚えています。
財政制約が復旧・復興の足かせにならないように
――復興特別会計について 国土交通大臣なら道路や鉄道、文部科学大臣なら学校、厚生労働大臣なら病院など、各大臣には所管の現場がありました。財務大臣の場合、現場というよりお金の工面をするのが仕事でした。当時頭にあったのは、財政が制約になって、被災地に迷惑をかけてはいけないという思い。復旧の予算計画を立てた上で、その財源をどう確保するかが一番の課題でした。
最初は予備費で対応しましたが、その後は随時、各省庁からの要望を取りまとめて補正予算を組みました。そして震災から5年を「集中復興期間」と位置づけ、その間にどれぐらいの予算が必要になるかを議論しました。その結果、総額で約26兆円と積算しましたが、これを一般会計とするか、それとも特別会計とするかで喧々諤々の議論がありました。最終的には、一般会計から独立させ、復興特別会計を設けることを決めました。そして、法人税や所得税の増税、復興国債の発行などでその財源を確保するという段取りを組みました。
特別会計としたのは、東日本大震災のような大きな災害は、これからも起こりうるとの前提に立ったからです。大災害の都度、災害対策会計を一般会計と一緒にすると、財政規律が緩み、お金の使い方が野放図になることを懸念しました。それで大規模災害では特別会計を作り、それぞれ自己完結させるという方針を決め、その第一弾として復興特別会計を導入したのです。
――復興予算の問題点について 財務大臣在職中、復旧・復興予算にかかわる枠組みづくりまでを担当し、2011年9月に首班指名を受けて総理大臣に就任したため、安住淳財務大臣(当時)に引き継ぎました。安住元大臣が指摘しているように、復興予算の使い方で流用などの問題が出てきたことは残念ですし、反省しなければいけない点です。
しかし、これはある種の役所のくせみたいな側面があります。コロナやIT、少子化など、時の政権が重要政策に位置づけたテーマを冠にすると、何でも予算がつくと考え、流用とまでは言いませんが、各省庁が政策を拡大解釈してそれぞれの予算を膨らませようとします。この事実上の流用、拡大解釈は、東日本大震災時に限ったことではなくて、実は常にあるのです。
だからこそ、行政機関自体がしっかり予算をチェックしなければいけないし、国会もよくチェックしなければいけないと思います。例えば、国会の権能である「予備的調査」など、いろいろな調査方法を駆使していくことです。それから予算化された現場を視察することも重要です。思わぬ発見があるからです。
現場から学ぶことが多く、何度も足を運びました
――総理就任後の取り組みについて 総理に就任した当時、内政外交でいろいろ重要な課題がありました。その中でもやはり被災地の復興が私にとって最大の命題でした。ちょうど発災から半年が経過し、復旧の段階からいよいよ復興というタイミングになっていました。復興の良いスタートを切ることが自分の役割だと捉え、被災地に何度も何度も足を運びました。
やはり現場に行くと、見えてくるものがいっぱいありました。被災者の方々とお話しし、いろいろな要望を受けました。例えば、仮設住宅に行ったら、風呂の追い炊き機能がなくて困っていると言われました。寒いときに追い炊き機能がなかったら堪らないでしょう。こうした問題をその都度、改善することを繰り返しました。案件によっては、担当大臣にも相談し、改善策を講じていきました。
福島での原発事故を受けて、「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を総動員する」と宣言した「革新的エネルギー・環境戦略」を2012年9月に取りまとめることができました。政府・与党内にはさまざまな議論がありましたが、最大公約数を基本政策に据えることができました。私たちの政権がもう少し長く続いていれば、その戦略に沿って数々の政策を実現していったと思います。自民党政権に変わってからその戦略が無視されており、本当に残念です。
――国際社会からの支援について 東日本大震災に見舞われた日本に対して、世界160以上の国々や40くらいの国際機関から人的支援や義援金のご協力をいただきました。中には、スラム街で缶詰の缶にお金を集めて送ってくださった人もいました。世界とのつながりを強く感じました。世界中からのご支援に対して感謝の念に堪えません。
特に米国が展開してくれた「トモダチ作戦」については、「同盟とはこういうものなんだ」と心に深く刻まれました。原発事故が発生し、米軍関係者らは命の危険も顧みずに、どんどん現場に入り、支援をしてくれました。それまでも日米同盟が外交安保の基軸だと常に言ってきましたが、私の確信になりました。「トモダチ作戦」への謝意は、カウンターパートだったオバマ大統領に繰り返しお伝えしました。
総理にとって危機管理が一番大事です
――復興政策を振り返って ハード面ではいろいろ進んできたと思います。ソフト面でも、グループ補助金など各種の制度を創設し、復興が進展しました。ただ、10年を経ても「風化」と「風評」の問題が残っています。両方ともメンタルに関係するもので、解決が容易ではありません。それでも「10年経っても終わりではない」「風化させてはいけない」「記憶に留めておこう」と人の意識に働きかけ続けていくことだと思います。風評問題については、総理を降りた後も、日本からの農産物の輸入を制限している国々に対して、機会あるごとに科学的、合理的な説明をしています。なかなか先方の意識を変えるのは難しく、まだまだ根強い風評被害があります。
――総理経験者として伝えたいこと 総理にとってやはり危機管理が一番大事だと思います。自然災害をはじめ、いつ、どんな危機的事態が起こるか分からない。危機管理の方法は、過去の災害対策での反省や教訓を活かしながら改善していく必要があります。実際の危機に遭っては、即応しなければなりません。政府は即応体制を常に検討し、用意しておくべきだと思います。
トップの役割は、適時適切な判断をすることです。その感性をどうやって磨いていくのか。私たち政治家は、東日本大震災も含めて、過去の災害に学ぶとともに、現実に災害に見舞われた時、自分が総理だったらどうするかを考えながら対応することが肝要です。その意味で原発事故に対処した菅直人元総理から、危機管理についてもっと伺うとよいと思います。
立憲民主党に集った多くの同志が民主党政権で震災対応に当たりました。復旧・復興にかけた思いは今も変わらないと思います。「がんばっぺ!東北」などの合言葉があります。民主党だろうが、民進党だろうが、国民民主党だろうが、立憲民主党だろうが、私たちは被災者に寄り添いながら復興再生を進めていく決意です。