東日本大震災・原発事故から 10年を超えて それぞれの「あの日」から 枝野幸男 衆院議員(埼玉県5区)

内閣のスポークスパーソンとして昼夜なく震災対応を情報発信し続けた当時官房長官だった枝野幸男代表。未曽有の危機に際しての情報収集や情報発信、今後の危機管理のあり方、原発ゼロ社会に向けた立憲民主党の取り組みなどについて聞きました。

天命と受けとめ、隠し事なく情報発信する

――発災当初について 参院決算委員会の出席中に揺れを感じました。初期微動がかなり長かったので、「本揺れが来る前の揺れが長いと震源が遠い」と中学か高校の理科の時間に習ったことを鮮明に思い出しました。しばらくして本揺れが来たら、これまで経験したこともないような大きなもの。遠い震源かつ東京でこれ程の揺れということは、「震源の近くは相当ひどいだろう、とんでもない地震だ」と想像しました。それもあって一足早く官邸に戻らせてもらいました。
 危機管理センターへ移動する車中で秘書官から「震源が東北」だと聞きました。センター到着後、その時点で推定されているマグニチュード、震源から、死者数が万単位になるなどの基礎情報の報告がありました。東北三陸沖が震源でしたから、推定死者数に津波の影響を含んでいるかを確認したら、「入っていない」というのです。津波の影響を考慮せずに1万人もの死者数が想定されていると聞き、後に「千年に一度の地震規模」と言われましたが、その時点で未曽有の災害に直面していると実感しました。

――内閣のスポークスパーソンとして 災害報告を受けながら、自分が東北大学出身者で被災地に土地勘がある。こうしたことを思う中、「これに対応するのが自分の天命なのではないか」と強く感じました。そこから何を意識したか。内閣のスポークスパーソンだから、多くの記者会見をこなすことになる。それもネガティブな発信をし続けなければならない。国民の皆さんにとっては聞きたくない情報、ニュース、一歩間違えればパニックを起こすような情報も発信しなければならないということでした。
 ただ、政権を取る前から情報公開に取り組んできましたから、「パニックを起こすかもしれないが、隠し事はしない」ことを方針としました。危機管理センターのメンバーにもその方針を共有しました。同時にパニックを起こしかねない情報を発信する私は、(1)低い声でゆっくり落ち着いて話すこと(2)慌てている姿を見せないこと(3)同じ情報でも、発信している人の態度や喋り方で、受け止め方が全然違うこと――これらをまず意識しました。

最悪を想定、最前線で情報収集し危機に対応

――情報収集のあり方について 各役所から上がってくる情報は、「それは3時間前に報告しないと意味がないよ」ということばかりでした。3月11日夜の午後7時か8時の時点で、こうした状態を前提にして対応しなければいけないと受け止めました。情報がないのだから悪い方、最悪の状況を想定し、処理していくしかないと。初動に近い段階から一貫してそのように考えました。ただ、実態は、時にその最悪と思っていたことをも超えていました。特に東京電力の福島第一原発事故が想定以上に悪化したことは、反省であり教訓でもあります。
 大槌町では、役場が高さ10メートルを超える津波に襲われ、町長をはじめ、多くの職員が亡くなられ、当然情報が上がってこない。気仙沼で夜、発生した火事は、自衛隊のヘリコプターからの映像は届くのですが、地上がどうなっているかが全く分からない。福島第一原発の事故情報も入ってこない。「最悪を想定しながら」と言いながらも、本当にどれぐらいの規模の津波で、どれぐらいの被害になっているのか、現地を見ないと判断を誤るだろうと思いました。

――菅総理の被災地視察について 未曽有の災害にもかかわらず、情報が不足する中、菅直人総理大臣(当時)が原発事故、被災状況を確認するために自ら視察をすると切り出しました。被災状況を把握し判断を下せる政府高官が現地に行く必要を感じていました。ただ、総理が視察をしたら世論から批判されるだろうと懸念し、自重するよう促しました。菅総理から「批判されてもベターな対応をする方が大事だろう」と強い決意を示され、その判断に従いました。
 日本型のリーダー、大将は本陣の一番奥に構えていて、最前線に行かない。こうした姿勢が大物感のあるリーダーだと一般に思われています。菅総理のようにリーダーが最前線に出て行くというスタイルは、撤退騒動の時に東電に乗り込んだことを含めて、日本型のリーダーのあり方からすれば批判されるでしょう。ただ、あの時の菅総理は、日本型リーダーとしては異色でしたが、世界的にみれば、むしろ当たり前の姿ではないでしょうか。菅総理の決断を受けて私は、本陣、すなわち官邸を守ることが自らの役割と認識して対応しました。

危機管理庁を創設し、原発ゼロ社会を加速する

――原発ゼロ社会に向けて 2012年12月に自民党に政権が戻ったことで、原発をやめていく道のりがある意味で9年間停滞しています。それでも最大54基あった原子力発電所が、この10年間を見ると、多い時でも5基程度、少ない時は1基も稼働していません。平均すると2基か3基しか動いてないのです。つまり、「原発なし」で10年が経過しました。実は、「原発に依存しない社会」は、政治よりも実態が先行しています。
 われわれは、政治の意思として「原発に依存しない社会」を確固たるものとするため、様々な検討を加速させていく。この間、停滞していた再生可能エネルギーはもっと増やすことができます。ただ、それには、国が送電網の整備を直接行なわないと進みません。同時並行で原発立地地域の未来をきちんと描かなければ、立地地域に対して無責任過ぎます。廃炉を進めるためにも原子力技術者を確保し技術力の向上に取り組み続ける必要があります。さらに技術者を養成し、将来にわたって雇用が確保される仕組みを維持しないと、技術者がいなくなってしまいます。
 今の政府は、こうしたことに取り組んでいません。私たちがそれを前に進めることによって、現在「原発に依存しないで成り立っている社会」を「原発を全く動かさない社会」へと向かわせ、定着させることに早くたどり着くことができると思います。

――今後の災害対策のあり方について 災害対策は、危機が起きる前の準備が9割なのです。災害が起きてからできることは1割しかありません。これが私の実感です。だから、いかに災害に備えるかが重要になります。ただ、準備をしても想定外のことが起こるから危機なのです。想定外のことにも対応できる体制を作っておかなければなりません。
 具体的には、いわゆる「危機管理庁」を作るしかないと思います。内閣府の防災部局が頑張ってくれていますが、人員的に少なすぎます。また、人材を養成しようとしても、内閣府の一部局で他部局を人事異動で回りますので、危機管理や防災に特化した専門人材にまで十分に育てられません。危機管理庁を創設し、専門チームをつくり、大規模な危機管理に普段から備えます。万が一そうした事態が発生したら、内閣官房長官や危機管理監の下でさまざまなオペレーションを動かします。
 3.11の時は、原子力災害、地震・津波災害に別系統で対応しました。ところが、さまざまな災害は、同時に起こったりします。自然災害も、原子力災害も、今発生している感染症も、災害という意味では一緒です。危機管理庁は、あらゆる複合災害に対応できるようにしなければなりません。もちろん感染症と自然災害では共通するノウハウとそうでないノウハウがあります。できるだけ汎用性の高いシステムを普段から用意しておけば、想定外のことが起こっても対応しやすくなると思います。今政府が設置すべきは、デジタル庁やこども庁よりも、まず危機管理庁だと思います。

――国際社会との連携について あの大震災、原発事故では、被災地の皆さんや全国で支えてくれたボランティアの皆さんをはじめ、国内の人たちの力が復旧・復興を前進させました。それと同時に世界の多くの国々がさまざまな支援をしてくれました。そのおかげで日本は、不十分ながらも、ここまで復旧・復興ができたのだと思います。福島第一原発の事故収束は、まだまだですけれども、米国やフランスなどの協力もあり、あれ以上の悪化を食い止めて10年間走ってくることができました。
 国際社会も「支え合い」だと本当に思います。どちらかというと今、一国主義的な風潮が強まっています。ところが、どんな国でもある日突然、深刻な事態に陥る可能性があります。そのような時、私たち日本人が経験した国際社会の連帯は、ものすごく心強いし、大きな意味があります。世界に対してこのことを伝えていきたい。私たちは、誰よりもそれを痛感する機会を経験しました。あの時の恩返しのためにも国際社会における連帯、支え合いを、もう一度再構築していきたいと思います。