「無敗の男」と呼ばれる中村喜四郎衆院議員。さまざまな困難を乗り越え、14回の当選を数えます。10月21日の衆院任期満了まで3カ月を切りました。数カ月以内に迎える総選挙に向け、今夏の活動のあり方について聞きました。

天職だと思えば、どんなことがあってもたいしたことはない

 今夏最優先すべきことは、何のために政治家になったのか。きちんと強く意識して行動することだ。公正公平な社会や国を作りたい。理不尽を許さない。社会正義を貫く。責任感を磨く。人間性を磨いていく。志をしっかりと持つ。「勝ちに不思議の勝ちあり。負けるに不思議の負けなし」。間違って勝つことはあるが、負ける時は自分に油断があって負ける。自分に向き合っていくしかない。

 自分とどう向き合えるか。政治家になったことが天職だと思えるか。思えれば苦しくないはずだ。天職だと思えば、どんなことがあってもたいしたことない。私は自分が好きでなった仕事だったから、事件の時でも「昔だったら命を取られたのが政治家だ。このぐらいのことは仕方がない」と受け止めていた。しかし天職ではないと思った時は辞めた方がいい。こんな仕事は理に合わない。

選挙を自分で戦えれば、政権担当能力は自動的に身につく

 選挙を戦う能力がなければ、政権を担当することはできない。政権担当能力という前に、選挙を自分で戦っているかだ。それができていれば、政権担当能力は自ずと簡単に身につく。選挙を自分で戦っていれば、取捨選択ができるようになる。何を優先し何を捨てるか。どこをやらなくてはいけないか。それを自分の頭で考えながらやらないと選挙運動はできない。他人任せにしているから「担当能力がない」と言われてしまう。

 選挙運動をやらないと、良い政治家になれない。選挙運動を有権者にこびへつらうもの、また生産性がないものというような受けとめ方をしている人もいるが、とんでもない間違いだ。有権者の心をつかめないで、国民の心をつかまえられるはずがない。かつての中選挙区で勝てるくらいになれば、小選挙区の戦いは楽だ。中選挙区で勝つには、党より自分を売り込まなくてはならない。自分が選挙をやるのだから党は関係ない。私は、自民党の時もポスターに自民党公認と書いたことがない。立憲民主党になっても書かない。

 政党掲示板も一枚もない。これからも作らない。ポスターは自宅に貼ってもらうもので、外に貼るものではないというのが私の持論。支持者の家に貼ってもらっている。家族全員が「うちは中村だ」と確認するためにポスターが家の中に貼ってある。そういう意識でポスターを捉えている。だから選挙になって名前と顔を覚えてもらおうという考え方は、日常活動が少ないからだと思う。

選挙を怖がらなくなったら落ちる時

 土曜、日曜、祝日は全て選挙運動と捉えている。1年のうちの120日は選挙運動をやっているようなもの。街宣車に乗って選挙区内を歩く。選挙区を回ると、1300キロメートルくらいあるが、月に2回は必ず歩く。だいたいコースは全部決まっていて、5分と違わない。時間を正確に刻みながら走っていく。週末になると、「そろそろ中村喜四郎来るな」という距離感。それでも人が戸外に出てくるかというと、誰も出てこない。

 私を支持している人は、「おじいちゃん、中村喜四郎がそろそろ来るね」「そうだな」と言っているうちに中村喜四郎の声が聞こえてくる。そういうのを子どもの頃から聞いている。おじいちゃんが亡くなると、お父さんがやってくれる。お父さんが亡くなったならば、孫がやってくれる。そういう家族の確認のためにポスターを貼っておいてもらう。見えないところで構わない。居間だって台所だって構わない。どこでもいいから。外に見せるためには貼らない。

 日常活動を十分やっているから外に貼る必要がない。それでも選挙で勝てるかといったら、この次は分からない。このように選挙は難しいもの。これだけやれば「絶対」というのがないから怖い。選挙を怖がらなくなったら落ちる時だと思う。選挙は何回やっても怖い。それを怖いと思っているだけではなくて、本当に怖いと思えるかどうかだ。

党は最後の付け足し、選挙は自分で戦うもの

 与党か野党かに分けたがる人がいるが、ナンセンスだと思う。有権者は、与党であろうと、野党であろうと、どんな人間なのかを知りたがっているのだから。中選挙区制の頃、共産党や社会党で勝った人は魅力のある人だった。ところが今は、自分のことを言っても興味を持ってもらえないから、だんだん党のことしか言わなくなっている。

 選挙は党がやるのではない。自分が戦うものだ。党は最後の付け足しくらいの気持ちでやっていかないと。「立憲民主党の」「自由民主党の」ではないでしょう。自分がどういう人間かをアピールしなくてはいけない。小選挙制になって政治家が堕落した。自分を磨かないで、政党の名前を名乗っていればいいと。それで投票率がどんどん下がり、70%から55%まで落ち、1500万人の有権者が逃げてしまった。この人たちが投票に戻れば、政治は変わる。それを取り戻すために熱くなくてはいけないのが政治家の仕事だ。それなのに、その大きな流れに取り組もうとしない。目先のことだけをやっている印象だ。

国民が知りたいことをきちんと伝えなくてはいけない

 立憲民主党は、「野党は反対ばっかりしている」と政府与党から言われてしっかり反論していない。国会図書館で調べてもらったら、第195特別国会から第204通常国会まで10回の国会の中で採決法案が257件。その中で立憲民主党が反対したのは55件。そうすると26.1%しか反対していない。それをドーンとなぜ言わないのか。

 ネガティブ・キャンペーンには具体的な数値できちんと反論することだ。立憲民主党はこれだけのパーセンテージしか反対していない。「どうして野党が反対ばかりしているのだ」と安倍前総理や菅総理に言えばいい。これで野党第一党として間違っているかと。「暗黒の3年間」と言われたら「暗黒の8年間」をどう総括するのかと迫っていかなくてはいけない。

 誰も調べようとしないから国民に事実が伝わっていない。調べれば、すぐ分かることだ。それが、有権者が知りたいことであり、国民目線の対応だ。「反対ばかり」と言うなら、本当に反対しているのかどうかということこそ、野党は言わなくてはいけない。ところが具体的に説明しきれず、言われっぱなし。これでは野党はひ弱に思われてしまう。

選挙に絡み、選挙で決着をつける

 どんどん選挙に絡まなくてはダメだ。知事選でも何の選挙でもどんどん絡む。積極的に絡んでいくことによって道が開ける。「選挙に行こう」と誘っても誰も行かないから、私は1人で新潟県からはじめて、高知県、東京都、埼玉県、千葉県、静岡県での選挙に行った。最近では横浜市長選でも歩いた。選挙に絡むことによって、そこに繋がっている立憲の人たちに応援のチャンスが出てくる。そうやって道を開いていかなくてはならない。弱い野党なのだから選挙をテコにしなくてどうやって強くなれるのか。

 こういう運動を皆でおこなえる政党になれば、国民の方が関心を持ってくれる。ところがそうした国民を向いた運動をやってない。やはり選挙で国民を巻き込み、選挙で判断してもらう。国会でどうやるかよりも、選挙民を巻き込むのが政治家だ。相手が敵失、エラーを繰り返しているのだから、そのまま選挙戦に入っていく。そして選挙で決着をつける。それがプロではないか。野党はそうしていかないと、迫力が出ないのではないか。

国民の中へどんどんどんどん入っていく

 野党は常に国民に近い立場にいるか。与党は近くないが、野党も近くないのが実態ではないか。永田町だけで政治をやっているようだ。野党が有権者の声に近くなるために何をすべきか。野党は昔の自民党がどうやっていたのかを学べばいい。地域にしっかりと根ざして国民の方を向いて、そして責任あることを言ったり、おこなったりすることを重視していた。そうした方向を打ち出せば、国民が安心してくる。どっちを向いているか分からないような話をしていてはダメだ。国民の関心に対して、しっかりと目を向けていけば、おのずから間違った議論にならない。議論は大切だ。野党の中で議論百出するようにすればいい。昔の自民党は議論百出だった。

 活発な議論をして、皆で決めたことは守る。それが大切だ。議論すると言って、「あいつはダメだ」「こいつはダメだ」というような子どもの喧嘩では話にならない。国家国民のために議論は大いにすべきだ。そういう昔の自民党を目指す。「二大政党時代を作る」と言ったのだから、そこに大きな方向がなければいけないのに、大きな方向を示してない。だから野党はダメだと言われる。もう今の自民党は、昔の自民党には絶対戻れない。楽なことをしてしまったら、恐ろしいけど、苦労する方に戻れない。野党は与党と違って苦労する方向に行かなくては野党の価値がない。苦労する方向に行かないと国民が関心を持ってこない。昔の自民党は苦労して国民の声を聞こうとした。野党は苦労する方に向かう。国民の中にどんどん、どんどん、どんどん入って意見を聞く。