立憲民主党憲法調査会(会長・中川正春衆院議員)は、国会内で会議を開催。同調査会顧問の枝野幸男衆院議員が「立憲主義とはなにか」をテーマに講演しました。講演内容の概要は以下の通りです。
(1)民主主義における立憲主義とは「少数の権利を守るための憲法が権力を縛る」こと
(2)立憲主義に基づく憲法議論とは、「主権者たる国民の側から権力者をより縛るべきという声を受けて、発議の議論をすべき」
(3)憲法改正国民投票は国民の大多数が賛成の時に初めて国会で発議されるもの
(1)民主主義における立憲主義とは「少数の権利を守るための憲法が権力を縛る」
かつて絶対王政の時代、王様の権力を縛るルールとして作られたのが憲法。あらゆる権力は憲法というルールによって正当化され、その憲法というルールによって縛られる。そしてそういった社会のあり方が「立憲主義」と言われるようになりました。
現代では、国民の多数によって支持されている人が権力を持つ「民主主義」「国民主権」の社会となり、選挙で選ばれた国会議員は立法という権力を与えてもらっています。
では仮に、国民の多数に支持され国会の3分の2の議席を得たとして、その政党は「どんな法律でも自由に作っていい」という、白紙委任をされているのでしょうか。それが民主主義や国民主権のもとにおける立憲主義でしょうか。「国民主権や民主政治は、多数決なのか」。これが民主主義の中における立憲主義の1つの大きなポイントです。
友だち10人で食事に行こうとなったとき、そのうち9人がカニを食べたいと言い、しかしながら残り1人は甲殻類アレルギーでカニは食べられないと言う。このとき、9人がカニを食べたいと言ったからと、カニ料理でいいのでしょうか。
あるいは、車いすの仲間が1人いる中で、料理が美味しい、安くていいからとバリアフリー化されていない店を選ぶことは正義でしょうか。
民主主義は、多数決が正義とは限らない。多数決民主主義というのは、そういう矛盾を抱えている仕組みです。民主主義は、多数決とイコールではありません。厳密に言うと、「みんなで話し合い、できるだけ多くの人が納得できるように答えを出しましょう」というのが民主主義の定義であって、みんなが納得するための手段の1つが多数決に過ぎない。だから多数を持っているから、「俺たちが正義だ」と振りかざすのは全く正義ではないし、民主主義の本質ではない。これは民主主義論の本質です。
一方で、1億人という日本社会の中では多数決を基本にしなければ国家は成りたちません。そこで、政治家は法律を作る前提として、憲法というルールの中で権力、立法権を行使する。これが民主主義における立憲主義です。つまり、少数の権利を守るための憲法が権力を縛る。権力は、言論、表現の自由や集会結社の自由といった個人の領域に介入してはいけませんが、世紀の後半から社会的な人権の意味が増し、人権保障の規定が、統治機構のルールと同様に重要になってきた経緯があります。
日本国憲法では今、生活保護の根拠になっている「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(第25条1項)の規定のように、公権力に対して積極的な行動を求める権利の意味がどんどん大きくなっていますが、立憲民主主義の本質から言えば、多数意思で実現可能なことは憲法に書く必要はない。少数者に不利益を与えるような蓋然性を抱えていないテーマは憲法のテーマではないということです 。
例えば、「高等教育の無償化」はみんながいいと思っている話であり、少数の人たちが不利益を受ける性質を内在的に持ちません。こうした、本質的に憲法の話ではないものを憲法の話にしたがる、そういう不思議な構造がわが国にはあります。
(2)立憲主義に基づく憲法議論とは、「主権者たる国民の側から権力者をより縛るべきという声を受けて、発議の議論をすべき」
立憲主義、立憲民主主義の趣旨からすれば、憲法議論は主権者、公権力を縛る当事者である国民の側から「最近の権力者はとんでもない連中だから、もう少し縛りをかけなければいけない」とか、最近の社会権的、請求権的人権意識の高まりによって、「権力者にはこういう義務を課さなければいけない」「権力は少数、社会的弱者のためにこういうことをすべきだ」といった 声が上がってきたことを受けて、発議の議論をすべきものです。
日本国憲法のもとでは、われわれ国家議員は政策的にやりたいことはほぼできます。憲法を触らずとも法律でできることを、一生懸命憲法の議論にしているのは、憲法をおもちゃにしているとしか考えられません。
国会で重視すべきは、国民の皆さんからお預かりしている権力を行使するにあたって、より合理的であるにはどうすべきか、当事者として気づくことを議論することだと思います。
典型的なのが、臨機国会の召集です。憲法53条は、衆参いずれかで議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時国会の召集を決定しなければならないと規定しています。にもかかわらず、政府・与党は召集期限がないことから野党の要求を無視し続けている。これは今の日本国憲法の瑕疵(かし)だと言えるので、それは改めましょうと、われわれ国会の側が積極的に発議しなければいけません。立憲主義的な観点から言えば、あまりにも恣意的に行使される衆院解散権や、地方自治体の権限強化、情報公開請求権などは議論が必要なテーマではないかと考えています。
人権の議論は、少数者の視点に立たないといけませんが、なかでも表現の自由は権力が不当介入してはならない、絶対的と言っていい個人の基本的な人権です。しかしながら、現代では、部落差別やヘイトスピーチといった不当な人権侵害がなされる問題があります。これに対しては、公権力が一定の介在をしなければ、なかなか個人の少数者の人権を守れない構造にあり、社会権的、請求権的な基本的な人権のニーズが高まっています。
一人ひとりの人権を守るという観点からこの双方をどう折り合いをつけるのか、この難しい課題を抱えています。憲法上の位置づけについては、5年、10年かけて議論が必要かもしれないと思っています。
(3)憲法改正国民投票は国民の大多数が賛成の時に初めて国会で発議されるもの
日本国憲法は、国民投票で議論になることを想定していなかったと思います。社会変化の中で抽象的な意味で自分が少数になったときも困らないように、国民の皆さんから「人権規定的な部分を強化をしましょう」あるいは「公権力のプロセス手続きなどについて、少し弊害があるから何とかしよう」といった声が上がり、大方の皆さんが賛成するような話のときに初めて発議がなされて改正されるのが立憲主義ではないでしょうか。
だからこそ、憲法改正の手続きについて「国会で衆参各議員の総議員の3分の2以上の賛成を経た後、国民投票によって過半数の賛成を必要とする」(第96条)と定められています。今、地域の住民の賛否が二分している課題について住民投票で住民の意思を聞いてみようという話とは、そもそも違うわけです。
憲法が想定しているのは目の前の個別テーマをどうするかという話ではなく、抽象的に将来にわたって、今の現代的な価値、社会状況を踏まえると、「ここはおかしいよね」と概ねの共有ができているから憲法典は変わるべきあって、憲法改正国民投票は、賛成多数になる状況で初めて行われることが想定されています。
一定の投票率を満たすことを条件とする「最低投票率」制度については、私は一貫して消極的な立場です。今の危うい状況で議論になることは理解しますが、制度論的には最低投票率が問題になるような、国民投票で2分されるようなときは発議すべきでないと、発議権を持っているわれわれに課しているというのが前提です。本来、最低投票の議論など必要のない状況が、まっとうな憲法議論ができ、立憲主義的な議論ができる前提条件だと思っています。