1945年8月6日に広島に原子爆弾が落とされてから79回目の夏を迎えました。被爆地から約1.2km、天満町で被爆した吉濱幸子さん(93)に、大学院生の安田さんと大学生の後藤さんの2人が、被爆当時の惨状や心境、被爆の後遺症、平和への思いなどを聴きました。

中央は吉濱幸子(よしはま・さちこ)さん 昭和6年3月生まれ、広島県比治山公園の東側の段原東浦で育つ。右はインタビュアーの安田さん、左は後藤さん

安田)私たちは戦争を体験した方々の孫、ひ孫の世代です。私たち若い世代に、今日このような話をしようと思った気持ちを聞かせてください。

吉濱)被爆したのは、今から79年前のことですが、嫌な思い出でです。私の2人の子どもにも話したことはなかったです。夫が昨年、95歳で亡くなり、落ち込んでいる時に、体験談を話してみないかと話をいただいて、何か人のためになるのではないかと思い引き受けました。

安田)話しづらいところもあると思いますが、実際に被爆した際の状況から聴かせてください。

朝日新聞「広島・長崎の記憶」

吉濱)私は、爆心地から1.2kmの天満町というところにいました。近くに製鉄所もありました。原爆が落ちたのは、8月6日の午前8時15分です。私は14歳で、学徒動員として、軍需工場に駆り出されていました。その時は空襲警報が解除されて、みんな職場に着いて平素通りに仕事を始めていました。

 私は、空襲になった時に避難する防空壕が足りないということで、1.5mくらいの深さの穴を掘る仕事に携わっていました。掘り始めた時に、急に空がピカッと光って辺り一面が黄色くなったように見えました。その後ドカーンとすごい音がして、周囲が真っ黒になりました。一緒にいた5人は驚いて壕に伏せました。周囲の物の破片や破壊された物が頭の上にかぶさって、みんな気絶しました。

 しばらくして意識が戻り、頭にかぶさっている物を全部取り除いて上に出ました。爆風で一瞬薄暗くなり、朝なのにもう夕暮れのような感じでした。木造の建物はすべて倒れていて、ところどころから火の手が上がっていました。

 倒壊物の下敷きになって「助けて」とうごめく人たちがいるのですが、その人たちを助けていると、自分たちが逃げられないので、心を鬼にして何とか歩いて進みました。避難するために、人がずっと列をなして歩いていましたので、その列に従って私は友達と手をつないで、己斐(こい・爆心地から約2.5km)という山の方に逃げました。

 何が起こったのか分からなくて、みんな放心状態になっていました。周囲の人も普通ではなくて、火傷で皮膚がボロのように垂れ下がって、こういう風に手を上げていると、何か幽霊が歩いてるようで、すごく怖かったです。

 火傷もいろいろな種類があって、皮膚が焼きただれてテカテカになっていたりとか、裸のままで赤ちゃんにおっぱいをあげているお母さんがいたり、どう見てももうゾンビの世界、普通の世界ではないと感じました。

 みんな何が起きたのか分からないので、見た通りの言葉でピカッと光ってドーンといったので、「ピカドン」という名前をつけました。「ピカドンが落ちたんだって」と口ずさんでいました。

 お昼頃になったら、だんだん火災がひどくなって、山の木も燃え始めて、早く逃げないと焼け死ぬような状態になりました。救援隊のトラックが来たので乗って日本三景で有名な宮島まで運んでもらい、一緒に逃げた友達の家が、その次の大野という駅の近くにあったのでそこまで歩いて友達の家に辿り着きました。

 自分の家にはとても帰れないから、その家に泊めてもらい、友達のお父さんが、家の人が心配しているだろうからと、翌々日に自転車の後部座席に乗せてもらって、私の家のある広島市内に向かいました。己斐までは何とか行けたのですが、己斐から市内へは、とても歩けるような状態ではありませんでした。

 途中、市内では、死体がゴロゴロ転がっていました。夏なので、早く処理しないと死体も傷みます。その時はまだ戦争が終わっていなかったので軍隊もありました。そういう人たちが手伝いに来て、1人ずつでは焼けないので、死体を置いては木を置いて、死体を置いて、木という風に互い違いに山盛りにして重油をかけて死体の処理をやっていました。昼間に処理をしないと、夜になると空襲の的になるので、皆、死に物狂いで頑張っていました。夏ですから、とても暑いし、方々で何カ所も焼いているので、死臭が漂っていて、とてもいられない状態でした。

 広島市内には7本も川がありまして、段原東浦町に私の住んでいる家があります。私の家は比治山公園という小高い丘の東側にありました。丘の西側の家はみんな焼けました。私の家はこの東側にあったために焼失は免れました。やっとの思いで辿り着きました。

 私の家族は、比治山の東側に住んでいたので、少し物が落ちてきて、怪我はしましたが、命には別状ありませんでした。3歳上の姉は学徒動員で広島市中電の方に行っていて大丈夫でした。

 ただ一番可哀想だったのが、やんちゃ盛りの弟でした。弟は朝早くから外に出て遊んでいました。本当は、親から離れて田舎のお寺に住む学童疎開があったのですが、うちの両親は何故だか手放したくなくて自宅に置いていたのです。だから学童疎開に行っていれば生きていたかもしれないです。外を出歩いていて、爆風で飛んできた破片が鼠径部(そけいぶ)にあたりました。お医者さんもいないですし、お昼頃には、おなかに血液が貯まってお腹がパンパンに腫れていたそうです。「痛いよ」「痛いよ」と言いながら母に抱かれながら、当日のお昼頃には亡くなりました。

 私はいなかったので、その間の様子は分からないのですが、朝、「お姉ちゃん、行ってらっしゃい」と手を振ってくれたのに、私が帰った時にはもう火葬されて、あり合わせの骨つぼに入っていました。その時ほど、人の命のはかなさを実感したことはなかったです。私にとってはすごいショックな出来事でした。

 それを機に私もいろいろ考えて奇跡的に助かった命なので、何か人の役に立つ仕事をしたいなと思いました。

 当時、女学校5年生でした。戦後、学校が焼けて半年ぐらいは待機しましたが、広島の呉線の安浦にある軍隊の兵舎を借り受けて、秋から勉強が始まりました。4年生の時は寮に入っていましたが、5年生になってからは広島の自宅から往復4時間かけて通いました。5年生で高等女学校を卒業して、薬学の勉強をしたかったので、進学のために昭和23年(1948年)に東京に出てきました。

 親戚が新宿区落合付近に住んでいて、空襲で焼けずに、家も広かったので、部屋を借りて結婚するまで過ごしました。学校を卒業して国家試験も受けて薬剤師の資格を取ってから1年ほど東大病院の薬局で模範薬剤師として勉強して、その後一般の企業に就職して、4年経ってから結婚して辞めました。

 長女と長男がいますが、まだ子どもが生まれる前に昭和32年のお正月頃から、個人薬局を始めて、約45年続けて、平成14年(2002年)に辞めました。

安田)私も中学生の時に原爆資料館で、当時の写真を拝見しましたが、写真でもかなりたくさんの死体が転がっていて、本当に見るに堪えない光景だと思いました。それを実際に見たということで、本当に私には想像もできないような恐怖だったと思います。

吉濱)戦争に遭ったことのない人が見ると、資料館はすごいなと思われるかもしれませんが、実際にはあんなものではなく、見てもいられないほど惨めな状態でした。けれども、今は建て替えてから、きれいになりすぎてあまり実感が湧かないです。

 でも、今の方たちが見ると、やはりびっくりされると思います。

後藤)私は広島にも行ったことがなく、原爆の写真話は教科書でしか見たことがありませんでした。こうして生で貴重な話を聞いて、強く衝撃を受けました。

後編に続く