1945年8月6日に広島に原子爆弾が落とされてから79回目の夏を迎えました。被爆地から約1.2km、天満町で被爆した吉濱幸子さん(93)に、大学院生の安田さんと大学生の後藤さんの2人が、被爆当時の惨状や心境、被爆の後遺症、平和への思いなどを聴きました。 前編はこちら

安田)吉濱さんは原爆が落とされた所からかなり近いところで被爆をされたようですが、その後の体調の異変はありましたか。

吉濱)私は、甲状腺機能亢進症、いわゆるバセドウ病です。当時は、自覚症状が感じにくい病気で、その頃もう既に私は薬剤師をやっていて忙しかったので、あまり気が付きませんでした。

 平成14(2002)年頃に急に症状が出てきました。腎臓や肝臓の働きが悪くなり、朝起きたら足がすごく腫れて歩くのも大変だし、履ける靴もなくて、動悸はするし、自分でも何かおかしいなと思ってかかりつけの医者に行きましたが、なかなか原因が分かりませんでした。

 娘婿が医師で、自分の病院で診ている患者さんと症状が似ているから、きっと甲状腺の病気だろうと、検査をしたら相当悪い状態で1年間、治療用の薬を飲んで、徐々に良くなってきて腫れも引きました。

 ひどい時はうつ状態で食事も喉を通らないし、何も考えたくない状態の時もありました。ですが、薬が効いて元気になり、何とか仕事もできるようになりました。

 今も、血液検査をして悪化していないか調べていますが、その病気にかかると発見もしにくいし、治ったと思ってもまた出てきたりしました。

 放射線によって、そのような症状が出ることがあります。いくつか認定されている原爆症があります。私は、それに認定されて、原爆手帳を持っています。

 私は遺伝も心配しています。孫はまだ若いので全然兆候は出ていませんが、年を取ると出てくるのではないかと思うと、恐ろしいなと思います。

安田)私も、甲状腺の病気の親族がいるのですが、体のいろいろな部位に症状が出てくるので、本当に大変な病気だと聞いています。

吉濱)そうですね。多汗症になったり、手が震えて細かい字が書けないことなどがありました。今はだいぶ落ち着いてきて、平常に戻りました。老後になってから症状が出始めました。それまでは症状は全然ありませんでした。症状が出ても、すぐには気づきませんでした。

後藤)戦後苦労されながら薬剤師を目指して頑張られました。さらに後遺症と闘いながらも、実際に薬局を開業されていたとお聞きしました。薬剤師をめざした理由、続けられた理由を教えてください。

吉濱)本当は薬剤師ではなくて看護師さんになりたかったです。でも、親族は薬剤師がいいよと薦めるので、私もそれならと薬剤師になりました。

 やはり弟のことが一番関係しています。

 そして、被爆した天満町にいた人で生きている人はほとんどいませんでした。その時は生きていたけど、1週間ぐらい経って原爆症で皮膚に斑点が出て亡くなった人もいて、殆ど生存している人はいなかったです。私の学校のクラスの先生とお友達はみんな亡くなってしまいました。生存したのは、防空壕で作業していた5人だけでした。だから「とにかく頑張らなければ」という思いで生きてきました。

安田)実際に吉濱さんは、被爆された身として人一倍、平和には強い思いがあると思います。今後、戦争のない核のない社会にしていくために、平和について考えていることがあれば、教えてください。

吉濱)現在も、国際社会では原爆を使うようなことを言って脅したりとか、いろいろありますが、もう二度とそういう恐ろしいことはやめてほしい。人類の破滅だと思います。現在は、広島に落とした原爆より威力のある怖い爆弾のようですので、絶対にやめてほしいです。

 世界中の人が、被爆の怖さを理解して阻止してほしいです。核の廃絶は進めるべきだと思います。

20240724_150422.JPG

安田)今後、原爆の体験者がさらに減っていきますが、原爆を経験していない世代に、この知識を受け継いでいくことが大事だと思いますが、原爆を経験していない私たちからすると、やはり想像することが難しいです。

 どうしても自分事として捉えにくいというのがあると思うのですが、そういう経験していない世代にも、受け継いでいくために、何が必要だと思いますか。

吉濱)最近になってよく思いますが、みんな高齢になって、語り部が少なくなっています。何か形として残しておく方がいいとは思います。最近、「聞かせてほしい」と声をかけられることが多くなりました。

後藤)いろいろ聞いたり、関係するものを見たりとか、そうすることがやはり忘れなくていいのではないかと思います。とにかく原爆、戦争を知らない人の方が多いですから。その怖さを本当に肌で感じて、やはり平和のために努力してほしいと思います。

安田)本当に、実際に体験された方からの話ということで、本当に貴重なお話を聞かせていただきました。今後、私も、こういう話を他の友達や若い世代の方にもどんどん共有して、このような被害が二度と起こらない社会、世界にするために、このような活動を続けていきたいなと思っています。

後藤)私、今までにないこういった経験をお聞きして、本当に何か悲しさというか、言いようもない気持ちになりました。今の人たち、若い人達は戦争がとても遠くて、こういったこともあるということを友達や親、仲間に話して、平和についていろいろ考えてきたいと思います。

●インタビュアーを担当した安田さんと後藤さんに感想を聞きました。

――今のこの時代に生きている若い世代として今の原爆の話を聞いてどう感じましたか。

安田)私は現在、大学院で国際刑事法を専攻しています。そこで実際にどうやって戦争犯罪を処罰するかということを研究しています。学びの中でも思いますが、今の日本は、平和と言われていて、でも実際ロシアやウクライナの戦争やガザ地区での紛争があって、それでもなかなか自分事化ができないのが日本人の姿だと思います。そこをいかに自分事として捉えられるかということが、今後、平和を構築していく上でとても重要だと思います。今回、私は戦争を経験したことのない世代として、吉濱さんにお話を伺いましたが、本当に吉濱さんの言葉一つひとつが胸に重くのしかかってきて、これまで本や絵や文章で見るような芝居のような被爆体験とは違った視点から、原爆を捉えられる機会になったと思います。

 こういった機会を受けて、原爆の被害を自分事化することで、今後の平和について考えていくきっかけにしたいと思いました。

 大学で専攻している国際刑事司法においては、犯罪類型が今かなり増えてきて、前までは一つの類型に幅広くさまざまな行為が包含されていたのが、今はそれぞれの個別の犯罪類型を作って、犯罪として裁こうという動きがあります。より被害者の気持ちに寄り添った刑事司法になってきていると思うので、私は希望をもって学んでいます。

後藤)今はインターネットという手段を使って、ウクライナの戦時下の生の体験というものを聞く中で、戦争で犠牲になるのは、その国に住んでいる弱い立場の人たち、女性の方であったり、生活困窮者だったり、また当時の弟さんみたいな子どもが被害を受けてしまいます。

 そういった現状を今日再確認しました。やはり今、われわれ私は日本に住んでいて、大学にも入れて恵まれた生活を送っていますが、戦争中の人たちは、今の私にとっての普通の生活ができないという現状もあります。ですから、ちょっと考えていかなければいけないとは感じました。

――自分として記憶の継承にどう取り組みますか。

安田)実際の被爆者の吉濱さんからお話を聞けたので、話を聞いた時の思いや吉濱さんが教えてくださった実際の状況や、その後の状況をまずは周りの人、近い人に伝えていくことが大事だと思います。そして、私が伝えたその人が、また違う人に伝えてつながっていくと一番いいかなと思います。

後藤)今回の貴重な話を聞いて、自分に何ができるのかと考えました。いろいろな人たちに話して、一緒になって平和について今一度みんなで考えてみたいと思いました。

 平和は今、ずっと身近にあって当たり前だと思っていますが、ひとたび戦争という事態になったら、一瞬にして崩れます。そういった事態にならないように、もし、なってしまった時に自分たちはどうやって平和を訴えていくのか、いろいろ考えることがあると思うので、一緒になって考えて平和のありがたみを知りたいと思います。