阪神・淡路大震災から30年。
30年経っても決して風化させてはいけない。
30年前の1月17日午前5時46分はどのような状況だったか。
今後も起こり得る震災に、政治はどのような備えをするべきか野田佳彦代表と兵庫県連所属国会議員・総支部長が語ります。
■野田佳彦代表
私の後援会長のご子息がどうやら被災したらしいと。結局残念ながら亡くなるんですけれども、その後援会長が神戸に入れるようにどうしたらいいかとか、いろいろな手配をしたというその激動を感じた最初の第1歩はそうでしたね。
あの阪神・淡路(大震災)を経験したことをその後の教訓にしようと。要請がないと自衛隊が動けないから要請をできるような状況ではなくて(被災地の)首長たちはね。自衛隊の救出率が(消防や警察等より)一番低かった。それを反省して 東日本大震災の時は自衛隊が一番最初に行っているんです。2万人近い人たちを3日間で助けているんですね。それはもう、これだけ大きな地震だからということで現地近くに部隊を近づけていて、要請があったらどーっと入る形だったからなんですね。やっぱりいろいろと反省をその都度しながら、より多くの命を救えるようにしていくということをこれまで繰り返してきていると思います。
災害はいつ起こるか分かりませんが、間違いなく起こるので、その時の災害を最小限にするための努力というのも常にこれをやっていかなければいけないと思います。
■水岡俊一参院議員
地震が起こったその時は、震源地から約10キロ程度は離れたところに私は自宅があるんですけれども、その自宅で被災をしました。大変な揺れだったので、この世のこととは思えないぐらいびっくりをしましたが、徐々にいろいろなことが分かって一体どういうふうに対応したらいいのか、途方に暮れたことを思い出しています。
(災害)関連死を6400名を超える方々が亡くなった震災だったんですけれども、当然ながら幼い子どもを残して亡くなったご両親、親御さんがたくさんいらっしゃって、その残された子どもたちの奨学金を作るというのが震災後の私の仕事だったので、そういったことが関連して今の私があるので、震災をどう乗り越えるか震災で被害にあった人をどう助けていくのかというのが私の、また政治のテーマだと思っていて、党としても取り組みたいとずっと考えています
■井坂信彦衆院議員
当時私は神戸ではなくて京都で大学の2年生の冬だったんですが、京都も震度5で家の中のものはずいぶんいろいろ倒れて、テレビつけたらもう焼け野原みたいな大変な状況が映っていたんですね。当時学生で時間もあったので、友達のバイクの後ろに乗せてもらって何度か被災地の支援にも行ったりしてました。
神戸の震災の最大の教訓はやっぱり耐震化なんですね。実は亡くなった方の8割以上が家が潰れたことによる即死なんです。この間の能登の地震でもやっぱり1981年の前の旧耐震基準の家は半分以上がぺちゃんこに潰れてしまったと。一方2000年以降の一番新しい耐震基準の家はほとんど潰れていないんですね。そうすると助かる命と助からない命が、耐震の状況によって180度変わってくるので、耐震の問題というのがやっぱり相変わらず今も日本の防災の抜けているところかなと思います。
■桜井周衆院議員
当時、私は学生でございました。兵庫県伊丹市から通っておりましたので、その日の朝被災をいたしました。家は一応ちゃんと建物が残っていたんですが、母親の友達、西宮市内に住んでいる友達の家はもうちょっと中にいられない。危ないということで助けに行くと言いますか、わが家に案内するというのでそこまで迎えに行ったことも覚えております。その当時、西宮市内本当に家がぺしゃんと倒れて道路があちこち通れない状況になっていましたし、国道も高架になっているところが崩れてしまってそこを通れない。だからもう行く道を探しながら行ったというのも覚えております。避難所もなかなか手狭であったりとかいろいろあって公園の中で野宿されているような方もいらっしゃいました。そういった方々に救援物資を届けるというボランティアもしました。当時「Japan as Number One」と言われた国が一度地震が起きるとこの有様かというので本当に「残念」、「悔しい」そんな思いを持ちました。
翻って今見てみて、能登半島で(2024年)1月1日地震がありました。果たして神戸の時の地震、その反省を生かしてどれほど改善できたんだろうか。災害が起きた時に頼りになる政治。それを目指して頑張ってまいります。
■岡田悟衆院議員
当時小学校5年生でした。震度、堺市は4でしたのでお皿が何枚か割れたというぐらいでした。ただ、朝もう少し時間が経って、テレビを見て神戸の町並み火災が起きて、多くの場所で火と煙が出ている。そして高速道路、阪神高速が横倒しになっている。子どもでしたけれども、その映像を見て大変大きな衝撃を受けました。
これから防災対策を国がしっかりと予算をつけて、いざとなったら被災地の最前線に自治体の皆さんが立つわけですね。こういうところにはしっかりと予算を確保するということ。そして地域に合った防災ですね。西宮、芦屋というのは川もありますから水害の危険なんかもあります。ゲリラ豪雨なんかが起きるとアンダーパスと言って、鉄道の線路の下なんかに道路が下り坂になってくぼんでいるところがありますけれども、こういうところ車が入ると水がたまって非常に危険なことがあります。こういうものについても何とか対策をしていく必要があるのかなと思います。
■橋本慧悟衆院議員
その時、当時6歳。小学校入学を控えた年の1月でした。小野市に住んでいたんですけれども、下から突き上げるようなというか感じたことのないような揺れがありまして、食器棚がガッシャンと倒れるような音もしまして、何事かということで小さいながらにすごく衝撃だったのを覚えています。父親にすぐに抱きかかえられて車の中に即座に放り込まれて、毛布をかけられて「ここにいなさい」と。それはおそらく家屋の倒壊が今後起きた場合に免れるために迅速に父がとった対応だと思うんですね。その父というのは神戸市の消防士として阪神・淡路大震災からの復興復旧に携わっていたと。同僚の消防士さんも殉職をしてしまった方もいまして、幼いながら初めて父が涙を流している姿を覚えていますね。
今後の防災対策等については障がいをお持ちの方とか医療的ケアが必要なお子さんもいたりとか、そういったいろんな特別な配慮が必要な方々というのがしっかりと守られるように防災対策を組んでいく必要があるのかなと。30年を節目に風化してしまうということがよく言われていると思うので、その教訓をしっかり次世代に引き継いでいかないといけないなと。
■白眞勲総支部長(前参院議員)
あの1995年、阪神・淡路大震災の発災当時、私は韓国の最大の新聞社の朝鮮日報の日本支社長をしておりまして、東京におりました。当日の朝、もちろん東京は全く揺れてるも何もなくて「関西方面で大きな地震があったようです」という報道があって、ただそんなに深刻な空気っていうのは流れてこなかったんですね。こういった情報の伝達というものの課題が当時まだ少しあったのかなと、最近はだいぶ変わってきたとは言えども、やはり能登半島地震なんか見ましても、発災当時はやはり今でもその被害状況が本来の被害状況ではないような、ちょっと過小化されているような感じのところがあって政府の判断とかそういったことに鈍らせてきているのではないのかなという部分においては、よりやはりこういったものの情報伝達というもの真実をありのままに早く伝えるということは、今も課題として残っているんじゃないのかなと感じています。