【プロフィール】
石川ともひろ(いしかわ・ともひろ)
1973年(昭和48年)6月18日、足寄町生まれ。
足寄中学、私立函館ラ・サール高校、早稲田大学商学部卒業。
法政大学大学院政治学研究科修了。
民主党の公募で2005年第44回衆院選挙で北海道11区から出馬。
以後衆院議員3期。2019年北海道知事選に立候補するものの惜敗。
引退を表明した鉢呂吉雄参院議員から後継指名を受け、参院選へ立候補予定。
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――政治を志した原点は
私の故郷、北海道足寄町は日本一面積が広い町です。3人兄弟の3男として育ち、中学校卒業までは足寄町に、高校は函館、大学は東京に行きました。野球少年で小・中・高校と野球部に所属、映画も好きで、特に『ロッキー』や『バックドラフト』といった、困難をばねに逆転していくストーリーは繰り返し観ていました。最初の選挙では、みんなが「絶対に勝てないからやめろ」と言われる中、(自民党の)中川昭一さん相手にぶつかっていったのも、結果的にハングリー精神が強いのかなと思います。
私が生まれたとき約1万2千人だった足寄町の人口は、今は6千人台です(総務省「令和2年国勢調査」で6523人)。寂しくなる故郷を元気にしたいというのが政治家の原点です。
高校生の時にソビエト連邦が崩壊し(1991年)、世界が大きく変革していく中で政治に興味を持ちました。最初は国際政治から、次第に国内政治に興味を持ち、過疎の町が元気にならないかなと思う中で、目に留まったのが『日本改造計画』(小沢一郎著)でした。その後1993年、大学2年生の時に小沢さんが自民党を離党して新生党を立ち上げ、政権を取った。政治のダイナミズムを感じさせてもらいました。そうした中、大学在学中に小沢一郎さんの関係者と知り合い、声をかけてもらい書生になりました。
一致点を見出す大切さ
――小沢一郎さんの書生として学んだことは
戦後自民党が政権を下りた2回、その両方に小沢一郎さんが関わっています。二大政党制の是非は後世が評価するものですが、小選挙区制を導入し、二大政党制になることが日本の政治にダイナミズムを入れるきっかけになる、その信念のもと行動していったのは、小沢さんのすごいところです。そうした動きが私の人生に重なりました。
小沢さんは厳しいけれど若い人に任せてくれる。いろいろな経験をさせていただきましたが、今、国民の関心が高まっている安全保障問題に関して1つ挙げると、自由党と民主党との合併(民由合併2003年)に至る段階で、小沢さんは横路孝弘さん(元衆院議長)と意見交換の勉強会を始めたんです。安全保障上、当時タカ派と思われていた小沢さんと、リベラル、ハト派代表の横路さんが勉強会を重ねていくことで一致点を見出し、一緒に政策提言をした(※1)。それが民由合併、その後の政権交代につながっていきました。
原発や憲法の問題など、課題はたくさんありますが、そういう発想を持ってもう一度野党をまとめようという考え方に立たなければいけないと思います。そういう経験をさせていただいたのは大きな糧でした。当選させていただいたら、当時の小沢さんを見て学んだ政治家として、野党はバラバラのままではなく、どこかで一致点を見つけていきたいです。
第1次産業で日本を元気に
――今の政治や社会の課題について、どのように変えたいですか。
まずは、日本全体の縮小化を止めること。日本全体が元気になるために、北海道は特にそうですが、第1次産業が元気にならないと雇用を維持できません。農業、漁業、林業、これをどう元気にしていくのか。民主党政権時代、小沢さんは「国民の生活が第一」を掲げ、地方の声をつないでいきました。農業者の戸別所得補償制度しかり。第1次産業をしっかり支えていくことで雇用につなげます。
例えば、北海道を代表するホタテの水揚げ地である猿払村は、漁業と酪農という2つの1次産業が基幹産業として安定しているので、人口2~3千人のところですが、出生率は2%を超えています。
私は特に、漁業者、林業者の所得補償制度の実現、そして、地域の医師不足解消に向けて、へき地医療に携わった医師には優先的に開業医の道を拓く「医師派遣制度」の確立を訴えています。コロナ禍でオンライン化も進む中、光ファイバーを整備し全国どこでも教育が受けられる、仕事ができる環境をつくる。ドローンや、自動運転の技術を活かし高齢者が安心して暮らせるまちづくりを進める。こうして田舎を元気にしていくことが、日本全体の元気さにつながっていきます。
国民に受け入れられるよう説明を尽くす
――日々の活動で大事にしていることは
立憲民主党としては、「政策提案型」もいいですが、今一度2009年に政権を取るまでの過程を全国会議員が思い出して活動することです。当時も、子ども手当や、高速道路の無料化、農業者戸別所得補償制度などを提案していました。一方で、消えた年金記録問題や耐震偽装問題を追及していく。追及も提案も国民に受け入れられていたということです。違いは何か。全国会議員が一丸となって、国民に受け入れられるように説明を尽くせるかだと思っています。
私は、街頭演説で意識的に(安倍元総理が繰り返し言っていた)「悪夢の民主党政権」のフレーズを使っています。民主党政権時代、「コンクリートから人へ」のスローガンが誤解されたところもありましたが、毎年1兆円ずつ社会保障費が増えていく中で無駄な事業をやめて福祉予算を拡充した。今も事業者の方から、「(民主党政権で)予算を付けてもらったおかげで、われわれ就労継続支援B型事業への支出がどんどん大きくなっています」と言われます。
政府与党も今では子育て支援だと言っていますが、子ども手当も、高校の授業料無償化も、民主党が最初に訴え提案したもので、端緒をつけたのはわれわれです。そこをしっかり見直してくださいと言うしかない。今は「生活安全保障」で掲げている、小中学校の給食費の無償化や、高校・大学授業料の無償化といった政策を地道に訴えていきます。
立憲民主党が何をやろうとしているかが見えないと言われるのは、国会議員が迷っているからです。消費税5%減税も、一番強調していいことなのになかなか聞こえてきません。選挙では「生活安全保障」をしっかり訴えていく以外にはないと思っています。
風は自分で起こすもの
――最後に、決意をお聞かせください。
今回、3人区の選挙で2人が立候補を予定しているのは北海道だけです。周りからは「今回は厳しい」「絶対に当選しないから」……いろいろ言われましたが、「前回2議席取っているのだから、馬鹿なこと言っているんじゃない」「風は自分で起こすものだ」と言いました。
「自分しかいない」という強烈な自負があります。あらゆる荒波を乗り越えてきましたから。それでも、これだけ応援してくれる人がいる。なんとしても当選しなければいけないと思っています。
逮捕され、立候補ができなくなった私に代わり、妻が出馬を決意し小選挙区で2回連続当選しました。妻ともども、その実行力、精神力を期待されているとも思います。石川ならなんかやってくれる。「立憲を変えてくれ」ともよく言われます。
寒さの厳しい地域で育ち、小沢さんや、鈴木宗男さんという厳しい人たちの下に仕えてきました。高校時代の経験も大きいです。高校野球で学んだのは、「奇跡は努力の延長線上にしかない」ということ。いきなりホームランは打てない。素振りをしているからできることです。選挙も一緒。いきなり立候補しても当選できないですから。地道な活動がある。
もう疲れたな、と思ったことは何回もあります。収監されたときは(政治家を)やめようと思いましたよ。でも拘置所から出てきて、お披露目集会で千人ぐらい集まっていた。それを見たらやっぱりやめられない。自分が動けば風は吹いて来る。必ず起こしますから。
※1 「指揮権を国連に委ねた自衛隊の別組織である国連待機部隊を創設する」との合意文書を確認