東日本大震災・原発事故から 10年を超えて それぞれの「あの日」から 馬淵澄夫 衆院議員(奈良県1区)

東京電力・福島第一原発事故発生から2週間後に震災と原発事故の収束を担当する総理補佐官に任命された馬淵澄夫議員。未曽有の原発事故を収束に向かわせるため、原子炉の再爆発、放射能放出、建屋の耐震補強工事、最悪のシナリオへの対応などをどのように専門家の協力を得て進めたのか、現政権の事故対応への評価、今後の課題などについて聞きました。

東日本大震災・福島第一原子力発電所事故収束担当の総理補佐官へ

――震災当時の様子について 被災した時は、党の広報委員長として衆院議員会館の自室で統一地方選向けのCMの打ち合わせを党事務局長としている最中でした。凄まじい揺れでしたから打ち合わせをすぐに中断し、国会内の国会対策委員長控室に駆け込み、震災状況、国会対応の把握に努めました。

 2週間経った3月25日夕刻に総理官邸から電話がありました。仙谷由人官房副長官(当時)から福島第一原発事故の深刻な事態を伝えられ、「(官邸に来て)マブチパワーで、やってくれ!!」と事故収束への協力を求められました。

 その時は、即答できませんでしたが、岡田克也幹事長(当時)に相談の上、翌日官邸に向かうことにしました。地元から上京する新幹線の中で、原子力の専門家でもない自分に何ができるかと自問しました。直前まで大臣を務めていた国土交通省が災害対策に精通した人材を擁していたことから、何らかの専門チームを設ける必要があると考え、事務次官に補佐体制の検討を依頼しました。

――総理補佐官チームの結成について 3月26日、官邸に飛び込むと、総理の執務室に通されました。そこで菅直人総理(当時)から「福島第一原発が大変な事態にある。すぐにでも状況を把握した上で、対策を検討してほしい。そのために総理補佐官席を用意している」と打診されました。それを受諾すると、その場で枝野幸男官房長官(当時)から辞令を渡されました。そこには「東日本大震災・福島第一原子力発電所事故収束担当」と記されていました。これが私のミッションだと知り、本当に身の引き締まる瞬間でした。

 その後直ちに、経済産業省で開かれていた関係省庁や米軍との合同会議、続いて東京電力内に設けられた政府と東京電力との統合対策本部の協議に参加し、原発事故状況の実情把握に当たりました。幸いにも同日中に国交省事務次官から私を支える体制を整えたとの連絡が入りました。国交大臣をしていた時の秘書官、大臣政策審議室の技官、エネルギー行政に精通した経産省事務官の3人で総理補佐官チームを編成することが決まりました。

再爆発、放射性物質放出、燃料プール崩壊、最悪シナリオに対処

――「最悪のシナリオ」を見せられて 実は、3月26日の経産省での会議に出席する直前、細野豪志総理補佐官から近藤駿介原子力委員長が作成したいわゆる「最悪のシナリオ」を見せられました。1号機が再度の水素爆発を起こすかもしれない。その時に窒素封入を行って収めることができる可能性がある一方で、万が一爆発を起こしたときには、再爆発で炉心がむき出し状態になることを指しました。その事態になれば、東日本全域を覆うような、1,000万人、2,000万人、3,000万人ともいうような諸県の皆さんの生命や健康に被害を及ぼす可能性があるというシナリオでした。それを見た時には、「どうしたらいいのか。自分は何の知識もないし、これをどう解決しろと言うのか」と本当に思いましたが、「自分がやらなければ仕方がない」と言い聞かせました。正直なところただただ驚くばかりでした。

――福島第一原発事故の何が問題だったのか 補佐官に就いてから1週間くらいは、東京電力をはじめ、原子力安全・保安院や経産省など、ありとあらゆるところから情報収集しました。海江田万里経産大臣(当時)ら関係者と打ち合わせをしながら、問題点の整理をしていきました。

 それで明確になったことは、(1)1号機の再爆発を抑えなければいけないということ(2)いわゆる「最悪のシナリオ」の通りに爆発した時の対応を極秘裏に進めておくということ(3)原子炉の水素爆発で放射性物質を含んだ水蒸気が放出された可能性があるため、原発にふたをする、いわゆるカバーリングを行うということ(4)原発に流れ込んだ地下水に放射性物質が混ざって海洋放出されている可能性があったため、地下水の流入を遮断しなければいけないということ(5)水素爆発で最も損傷が激しかった4号機の核燃料プールに1,535体もの使用済み燃料が保管してあり、プールが崩壊し水が抜けてしまえば、炉心がむき出しになる恐れがあったことから耐震補強工事をしなければいけないということ――以上の危機的事態に福島第一原発が陥っていたことが判明しました。

P1020245.JPG

衆知を結集しチーム力で原発事故収束に立ち向かった

――課題の抽出と対処方針の確定について これら課題の抽出と具体的な対策方針を、実は1週間程度で全てまとめることができました。国交省、経産省の精鋭メンバーが私の秘書官として来てくれたおかげです。国交省からのスタッフは災害対策を経験していましたので対応方針を非常に論理的に立案しました。それだけでなく業界をどのように取りまとめたらよいのかも熟知していました。

 経産省から来てくれた秘書官も、いわゆる「原子力村」と呼ばれる人たちの中にある、さまざまな縄張りをよく理解し、縄張りごとのキーマンや最も本質的な発言をする人を見極めていました。東電の中にも技術部隊の人材など、対策に真剣に取り組む人たちがいて、秘書官と一緒にチームワークで対処してくれました。

 このチームの力は、本当に大きかったです。当時の私は、自らに課されたミッションを果たすには、一人では絶対にできないと悟っていたので、可能な限り多くの知見を集めること、衆知を結集すること、その上で国民の生命、財産の保持という最大の目標に向けて、論理的に優先順位をつけていくこと。これを一番に考え、ミッションに挑戦したのです。

P1020145.JPG

――具体的な対策、現場の取り組み これらリスク対策の全体を指揮したわけですが、私の一番のカウンターパートは福島第一原発所長だった故吉田昌郎氏でした。吉田所長と向き合いながら、1号機の再爆発を抑え封じ込めました。最悪のシナリオへの対策を全て作成し、カバーリングもできました。地下水の流入を防ぐための遮水壁に関しては、私が訴えた「ベントナイトによる遮水壁」はできませんでしたが、この問題点を一定程度明らかにしました。

 6月になると、最も懸念していた4号機の耐震補強工事が終わり、誰が現場確認するかが大きな課題として浮上しました。それまでサイト一帯は高線量でしたから、安易に入ることはできませんでした。また、耐震補強工事が終わったとは言え余震が続く中4号機内に入った政治家は誰も居ませんでした。菅総理からは、私が4号機内に入ることを止められました。ただ、当時の私の胸の内では、あの状況で現場確認に責任があるのは自分以外にいないと思っていましたので、現場の皆に「私が入る」と告げました。

 そうしたら吉田所長も「行く」と言い出しました。吉田所長が大量被ばくをしていたことを知っていたので、「絶対にダメだ」と認めませんでした。この件を巡って吉田所長と私は大げんかになってしまいました。食い下がる吉田所長を振り切って、私がタイベック(防護服)に着替えだしたら、吉田所長も着替えだしてしまったのです。

 着替え終えた2人は、背中に自らの氏名を書かなければならないことに気づきました。これは原発内で倒れてしまっても誰だか分からなくなってしまうことを避けるためでした。私が吉田氏にマジックを渡して、お互いにムッとしながらも「ちょっと名前を書いてくれ」と頼みました。そして私が吉田所長の背中に「吉田」と書きました。私の秘書官全員が一緒に入ると申し出てくれましたが、年長の2人だけを帯同しました。そしてこの4人で4号機の耐震補強工事の完了を確認しました。私にとって吉田所長は、原発事故に一緒に立ち向かい、収束させることを実現した、まさに戦友と呼べる存在でした。

P1020259.jpg

事故処理を巡る東電、自民党政権の目指す方向性

――東電幹部の主張について 当時、東電幹部が最も恐れたのが「石棺」です。最悪のシナリオにある再爆発が起これば、その対策として砂と水のベントナイトでスラリー(液体状の混合物)化して、原発を全部埋めることにしていたのですが、そのために最も有効な材料が錫(すず)でした。ところが錫を大量に世界のマーケットから購入すると、錫が一瞬にして市場からなくなってしまいます。錫がどこに行ったのかと市場で必ず噂が立ち、原発の事故収束に使われるのではないかと推測されてしまうのです。

 それでも私たちは、とにかく必死で錫を押さえようとしました。ところが、東電側は「錫は不要。大丈夫だ」というスタンスでした。原子力発電を再開するのが、当時からの東電幹部の思考でしたから、事故によって二度と元に戻らないなどということを表に出したくなかったからでしょう。ところが私は、東電幹部が最も避けていた「石棺」を主張していましたから、両者は当然真っ向から対立しました。

――政権交代後の事故処理について 2012年11月、民主党政権から自民党政権になり、東京へのオリンピック招致を目指して安倍総理が福島第一原発問題を「アンダーコントロール」と表明したことは全くの虚偽発言でした。今でも汚染水は漏れ続けています。汚染水が混ざっているからこそ、地下水をくみ上げて貯水タンクに入れるという方法をとっているわけです。早い段階で遮水壁を作っていれば、こんなことにはならなかったのです。

 2013年、茂木敏充経産大臣(当時)が「凍土壁」という話を持ち出した時、衆院経済産業委員会の質疑で「これはとんでもない」と指摘しました。なぜなら私が総理補佐官時に検討した結果、「凍土壁」では汚染水の原子炉建屋への流入を防ぐことが技術上無理だと分かり、却下した案だったからです。凍土工法は山のトンネル工事時に対象となるエリアの土を一時的に凍らせて止水するだけであり、地下水を遮蔽する実績はなかったのです。

立憲民主党の目指す事故対応とエネルギー政策のあり方

――民主党政権(当時)の事故対応からの教訓について 震災後、早々に政府と東電の統合対策本部を菅総理の命で設置しました。緊急事態でしたから法的な権限もないままに組織を立ち上げ、東電との協力体制を作り上げました。ところが徐々に事態が落ち着いてくると、同本部に法律上何の根拠もなく、権限と責任が曖昧だったので、ある事態で誰が責任を取るのか、誰が権限行使するかを巡って、みんなが「見合いする状態」になってしまったのです。これが一番しんどかったです。統合本部は、法律に基づいた組織として立ち上げ、責任と権限を明確にする必要があったと思います。

 新型コロナウイルスもそうなのですが、目に見えない脅威に対しては、過剰に恐れても駄目だし、逆にそれにたかをくくって、楽観してもだめだと思います。特に高度な専門技術を要するものは専門家の意見をどうしても聞かざるをえません。それでも素人でも分かるロジックに分解して物事を考えることはできます。そこまで落とし込んだ時に専門家に対して恐れずに物を言っていくことができるのは、国民の代表として選ばれた政治家だけなのです。

 私も現職の技術者に本気でぶつかっていきました。実は、一つひとつ整理をしてもらうと、この問題とこの問題ではどちらが正しいかを突き合わすことができたのです。チームによって問題を解決する。政治は専門家の意見を鵜呑みにするのではなくて、それをもとに最終判断する。今後、私たちが政権に就けば、専門家の意見を聞きながら、最終的にはその責任を背負って、政治が判断していきます。

――立憲民主党はエネルギー政策をどう進めていくのか 今もそうですが、メルトダウンの状況がどうなっているかも誰も分からない。もともと工程表に書いた廃炉の計画も全く進んでいない。こういう状況の中で、自民党が原子力の新増設に含みをもたせています。原発新増設には慎重にならなければいけない。

 私たちは、地域ごとの特性を生かした再生可能エネルギーを基本とする分散型エネルギー社会を構築し、あらゆる政策資源を投入して、原子力エネルギーに依存しない原発ゼロ社会を目指しています。即時ゼロではありませんが、私たちはこういうことを考えていると紹介する。その意味で、再生可能エネルギーであったり、あるいは省エネであったり、新しい時代のエネルギー政策の姿を提示しながら、原発事故の教訓をもって、廃炉に向けた展開を考えるのが、私たちの責任ではないでしょうか。

0J3A0713.jpg