「女性が動いて政治を変える!」参院本会議で10月13日、森ゆうこ議員は岸田新総理の所信表明に対して代表質問を行ないました。「質問にまともに答えない、これこそが民主主義の危機ではないか」と新総理の政治姿勢に猛省を求めました。立憲民主党参院幹事長として、党所属議員を束ねる立場にいる森議員ですが、今でも政治家になって良かったのか、「明言できない」と言います。何が自らを政治へと突き動かしてきたのか。人口減少など国家の最重要課題を解決するには、女性議員を増やすことが重要だと訴えます。
政治家には全くなりたくなかった
政治家と言えば、「よっしゃ、よっしゃ」という感じで、裏金をもらって悪いことをするイメージ。お友だちになりたくない。そう考えるいわゆる無党派層でしたね。私が選挙に出るなんて話が全くなかった頃に、何故か分かりませんが、父から「政治の世界は人材不足だから、『選挙に出てほしい』と頼まれるかもしれないが、選挙にだけは出てはいけない。政治家になったら嘘をつかなければいけないから」と強く言われました。
その私がなぜ選挙に出るようになったか。きっかけは当時の文部省の補助事業である「社会教育指導員」に就いて、町づくりに深くかかわるようになったことです。20年以上前、夫の母と同居するために横越町(※)に引っ越し、3人の子どもを育てながら英語教室を開いていました。当時の私はアンテナの低い人間でしたね。例えば、子どもの貧困の問題。今なら「子ども食堂を作ろう」とか、さまざまな活動が考えられますが、そうした活動を自ら率先して行なうなんて考えられませんでした。社会的、政治的な活動はしたことがありませんでした。 ※現在は新潟市江南区の一部
町づくりコーディネーター
ところが3番目の子どもが幼稚園に行く直前に、近所に住む当時の町の教育長から「もう子どもから手が離れるだろうから、昼間に社会教育指導員をしてほしい」と頼まれました。その時に与えられたテーマが「これからはお任せ民主主義の時代ではない。自ら考え、自ら行動する、主体的に町づくりを行う住民を、各種講座を通じて育て、それをネットワーク化し、町づくりのムーブメントを起こしてほしい」というものでした。それで公民館で女性教育、高齢者教育などを担当し、介護ボランティアや保育ボランティア、国際理解教育の講座など、ありとあらゆる硬軟取り混ぜたいろいろな講座を開催しました。その後、講座修了者を中心にいろいろなボランティアグループを立ち上げ、その事務局を担いました。
3年の任期を迎え、社会教育指導員を終えましたが、事務局は継続してほしいと頼まれ、手弁当で続けました。ボランティアグループを中心に町おこしのさまざまな事業、関連するイベントを毎週のように行なっていました。1番人が集まるイベントで言うと、河川敷に5000人を集めて開いたチューリップ・フェスティバルがありました。女性として初めて私が実行委員長を務めました。当時の私の役割は、今で言う町づくりのコーディネーターだったと言えます。町民による町の活性化が行なわれていると、地元紙がうちの町を取り上げてくれ、周りから「横越町すごいね」と評判になりました。
断り続けた出馬要請
1999年の統一地方選挙が近づくにつれ、私が出馬するのではないかという噂が町の中に勝手に広がっていました。当の私は、そんなことを全く考えていませんでした。何が悲しくて選挙に出なければいけないのという思いでした。恥ずかしいし、プライバシーも何もなくなる。裸で町中を走り回るようなイメージ。政治家に対して、そもそも良い印象を持っていませんでしたから。
横越町にとっては、村から町になって初めての議会選挙が1999年の統一地方選でした。当時の町長が町議会議長に「せっかく町制施行したのに女性議員が一人もいないとカッコがつかないから、森さんに町議選に出るように頼んで来てくれ。旦那さんも了解しないと悪いから旦那さんにも頼んでほしい」と言ったそうです。実際、私のところに、そして夫の会社にも出向き、頼みに来ました。そのほかにも毎日のようにいろいろな方々から出るようにと説得されました。気がついたら外堀を埋められていましたが、断り続けました。
夫の言葉で出馬を決意
ところが、選挙(4月25投開票)を間近に控えた4月1日、夫の大学の同窓生が私を訪ね「あんたが出るんだったら、俺はあんたの選対本部長になってやる。もし出ないんだったら俺が出るから、俺の選対本部長になってくれ」「次の選挙で俺は町長になると思う。町長になったら、お前を助役に指名する」と言われたのです。私からすると、「選挙のセの字も知らない」私になんでこういうことを言ってくるのか理解できず、「はあ?」という感じでしたね。
その話を聞いていた夫は、彼が帰ると、「なんであいつが町長でお前が助役なんだ。町長はお前の方がふさわしい」と言いました。「こんなに大勢の人が毎日、『出てくれ』と言ってきているんだから、出ればいいじゃないか。『奥さん、何していますか』と聞かれた時に『議員です』というのは結構かっこいいと思う」と言ったのです。その一言が私に選挙に出ることを決断させました。
これまで立候補をすすめてくれた人たちに出馬の意思を電話で伝え、本格的に準備を始めたのが4月8日。全て手作り。みんなでリーフレットをデザインして、みんなの提案で公約を作り、スナップ写真を撮って、パソコンでその写真に文字を入れてポスターを作りました。それをコンビニでカラーコピーしました。選挙の掲示板にそのコピーを手分けして貼っていきました。コンビニのコピーが雨をはじいたのは嬉しい誤算でした。意外にも選挙運動は楽しいものでした。毎日、昼食時をコアタイムにして手作りのおかずなどを持ち寄り、女性ばかり30人から50人の選対会議を開き、選挙のことだけではなく、生活や子育ての悩み、町に起きている新しい問題などを話し合うよい機会にもなりました。
「政治とは生活」を実感
当選してからは、まさに「政治は生活」との言葉通り、下水がどうとか、街灯がどうとか、普段の生活をする上でみんなが困っている身近な問題で行政の力を借りたい、という案件が次々に持ち込まれました。それに一つひとつ丁寧に対応していきました。例えば、大雨が降ると、住宅街にある調整池がすぐ満タンになってしまい、周辺の住居が床下浸水になってしまう事案がありました。これは他の地区の予算を先に回してもらい、すぐ解決しました。原因は排水管ジョイントの経口幅が足りないことでした。結構予算がかかったのですが、交換工事を行なったら、すぐに問題が解消しました。
同僚の議員たちは、地域の代表として、「1期だけやってもらえないか」とか「2期だけやってもらえないか」と頼まれたら、嫌とは言えない人たちでした。視察の時も役場をバスで出発して戻ってくるまで、「あそこの道路を先に直した方がいい」とか「あそこで介護の問題が起きて困っているから、こういう対応しなければいけない」とか、とにかく町で起きているさまざまな問題をいかにして解決するのかをずっと議論していました。その姿に触れて「素晴らしいな」と思いました。私の意見も非常に尊重してくれて、参議院選挙に出馬表明するまで約2年務めましたが、全く嫌な思いをすることはなかったですね。町の問題を解決しようとする責任感の強い人たちの集まりでした。
地方議会は民主主義の学校
地方議会は「民主主義の学校」と言われますが、それぞれの議員が地域の人々の代表として、一生懸命に町民の声を聞き、地域の要望だったり、個人の相談だったり、みんなから託されたことを丁寧に解決していく。それまでは教科書の中でしか知らなかった民主主義。その基本を初めて学ばせていただきました。そういう意味では今でも感謝に堪えない思いでいっぱいです。
少なくとも我田引水というか、それぞれの利益のために何か変なことをするような議員は一人もいませんでした。当時、行政の規模を大きくしていかないと財政的にもたなくなるからと、横越町長は新潟市との合併を強力に推進する立場でした。合併するということは、地域を代表する議員が、一人くらいしか新潟市議会に行くことができなくなります。既得権を手放したくない町議によって、合併が進まない地域もあったのですが、横越町の議員は、それを顧みず、合併を進め、日本海側初の政令都市新潟市の誕生に貢献しました。
「人生そこそこ」でいいと思っていないか
2000年の衆院選に30歳の菊田真紀子さんが挑戦することになりました。当時、面識がなかったのですが、縁あって「30歳の女性がチャレンジするのだから応援しよう」との思いで一生懸命支援しました。残念ながら全国一の惜敗率で惜しくも当選は逃しましたが、翌年(2001年)の参院選に向け、自由党から出馬してほしいと頼まれました。3番目の子どもがまだ小学校4年生でしたし、本当に悩みました。
その時も夫から「女だからって『人生そこそこ』でいいと思っているんじゃないの」と言われました。実のところ、痛い言葉でしたが、その通りでした。町のためにさまざまなイベントを実施したり、誰もやったことがない新しい分野を切り開いてきたりしましたが、私にとってはチャレンジではなかったのです。やる前から成功のイメージが頭の中にできていて、それを形にして、いろいろな人を巻き込んだというのが実体でした。本当の意味でのチャレンジはやったことがなかったのです。それで、どうなるか全く見当もつかない、無謀なチャレンジを一度はしてもいいかと思ったのと、社会教育指導員時代に国から送られてきた資料で知った少子化と人口減少の問題に取り組まなければならないと強く思っていたので、立候補を決断しました。
本人も周りも「無理でしょ」
それからは毎朝、ウグイス嬢もなく、菊田さんと私、それから運転手の3人で「街宣車出発します」と声を出し、ナビを頼りに各地を遊説しました。町議選ではやったこともなかった街頭演説を1日に最低30回やることにしました。新潟県は広くて、応援に出てきてくれる人も最初はほとんどいませんでした。毎日最低30回のノルマを果たし、約3カ月の間に全県で1500回ぐらいの街頭演説をこなしました。活動していく中で、自分が置かれた現状が分かってきて、大海に一人ボートで漕ぎ出て小魚を一匹すくうみたいで、「もう無理でしょ」という感じでした。周りも「比例票の捨て駒」と期待していなかったと思います。
それまでの私は、幸いなことに何不自由ない生活。子ども3人に恵まれ、地域の人たちと毎週末のようにイベントをしたり、あるいは友だちが来てホームパーティーをしたり、穏やかな満ち足りた生活をしていました。選挙に出ることになり、その生活を捨て、しかも子どもに悲しい思いをさせながら、何でこんなことをしているんだろうと何回も思いました。息子が交通事故に遭った時も(自転車が大破したものの幸い本人は無傷でした)、選挙に影響があるといけないからと、近所のお兄ちゃんたちが教えてくれるまで私に隠していたこともありました。情けなかったですね。家族に重い負担をかけながらも、参院選で初当選することができました。子どもに不自由な思いをさせたくなかったから、仕事と家庭を両立しようと新幹線通勤をしたこともありました。後にそれが原因で身体を壊し、半年くらい棒に振ることになってしまいました。
石にかじりついてでも実現すべきだった
民主党が掲げたチルドレンファースト、農業者戸別所得補償制度、地方一括交付金は、私が追求してきたテーマそのものでした。2009年に政権交代を達成した時には、遅ればせながら、一番重要な課題が解決の緒に就いたと思い、しっかりやろうと心に誓いました。しかしさまざまな障害で、描いたようには実現できませんでした。
一人満額26000円(月額)の子ども手当は、バラマキだなどとの批判を受け、結局頓挫してしまいました。ただ、少子化や人口減少問題で政策的に成功した、と言われているフランスなどの家族関係支出と比べてみると、例え満額支給しても、GDP比率で3分の1でしかなかった。そもそも予算が少ない。どんなに自民党から批判されようが、石にかじりついてでも、10年前に何としても実現すべきでした。
女性議員が足りなかった
やはり女性議員の数が足りなかったことが大きかったと思います。子育ては奥さんに任せっきり。最近は違うでしょうが、当時は、家庭的責任を果たしてない男性議員がほとんどでした。特に安倍さんら自民党の保守派は、子育ては自己責任、子ども手当は、「ポルポトやスターリンがやろうとして失敗した政策だ」と、大放談していましたから。
女性議員の方が、より生活実感がある。普通の市民の代表がもっと政治の現場にいれば、今実現しないともう間に合わないと考えたでしょう。当時、どれだけの議員が本当に真剣に考えていたのか。自民党の攻撃も酷かったですが、そこまでの実感が当時の与党・民主党議員にも足りなかったのではないかと思います。もっと女性議員がいれば、より切実な問題として、受け止められていたはずです。本当に今やらなかったら、ワーク・ライフ・バランスを整えなかったら、誰も子どもを生まなくなってしまう。給与もどんどん下がっていましたから、専業主婦を望んでも、それでは家庭が成り立たない事例が多く見られました。
幻の第3次ベビーブーム
国政で今、「何が一番の問題か」と言われたら、やはり人口減少だと思います。農業だけでなく、最近では自動車整備士が不足していることが報じられました。ありとあらゆる分野の生産年齢人口が減少し、立ち行かなくなっている。成熟社会ですから、今からではどんなにやっても人口は増えない。民主党が政権を取って子ども手当に着手した時は、第2次ベビーブーマーが生物学的な出産の適齢期にありました。第3次ベビーブームとまでは言えませんが、プチベビーブームくらいは起こせる人口の塊があり、最後のチャンスでした。残念ながら、幻の第3次ベビーブームになってしまいました。
もちろん子ども手当だけで子どもが増えるわけではありません。若い人たちは、非正規労働、低賃金。日本だけ賃金がマイナス。時給で言えばマイナス9%。ドイツ、フランス、イギリス、アメリカは、6割も8割も上がっている。この20年間は日本だけマイナスなのです。そして大学を出て社会人になった時に平均して300万円の借金(借りた奨学金)。夢も希望もない。先も見通せない。そして子育て支援は薄い。これでは少子化は必然です。
分配なくして成長なし
企業単体で見れば、人件費や経費を切り詰めることは、経営者としては、一種の正しい判断です。ところが、結果的にどの企業もやっているから、社会の購買力、社会を支える力がすべて低下し、全く活力のない社会になってしまった。一方で、アベノミクスで大もうけをした所得1億円以上の富裕層が2倍になって、彼らの所有する純金融資産だけで333兆円(2019年)にも達しています。
今からやっても遅いかもしれませんが、相変わらず「少子化」は一番深刻な問題です。本当に若い人たちが先の見通しをもって、恋愛し、結婚しなくてもいいから子どもを生み育てられる社会にしなければいけない。それができれば、今日的な日本の低賃金、活性化しない地域経済、三流国といわれるくらい落ちてきてしまった国力が結果として回復していくと思います。立憲民主党が提案する、みんなを幸せにする経済政策が不可欠です。「成長なくして分配なし」ではなく、「分配なくして成長なし」。これを進めることが、人口減少に歯止めをかけることにつながります。
もう一度「ユートピア」と言われる国へ
日本は世界に冠たる国民皆保険。健康保険証が一枚あれば、いつでもどこでも誰でも安心してお医者さんにかかれる。ところがコロナ禍に直面し、その皆保険制度が崩壊の危機に瀕しています。東京都では、ほとんど医療を受けられないまま、今年8月に200人が自宅で放置され亡くなりました。私も子どもを3人育てていますから、コロナ患者の妊婦さんが救急車で運んでもらえなくて、自宅で一人子どもを産み、その赤ちゃんが亡くなったと聞いた時、本当に情けなかった。何とも言えない気持ちでした。悲劇です。これが今の日本なのです。
そのような境遇に置かれる人を生み出している。私は国会議員として様々な活動をしてきましたが、苦しむ国民を救うことができませんでした。本当に申し訳ないと思います。もちろんこれまで、いろいろな有権者から「本当に助かりました」と感謝されたことはあります。ただ、今は良い環境をつくれていません。結局、こういう政治を変えられない。
でも、諦めるわけにはいきません。最近の約20年の自民党政治で結局、誰も幸福になっていません。かつて日本は、皆を幸福にする国だ、「ユートピア」だと、外国の友だちから言われました。もう一度「ユートピア」理想郷と言われるような国にしたい。そのためには、主権者としての行動を国民の皆さまにお願いするしかない。主権者の皆さんが持っている、選挙で投票するという権利、義務、責任を果たしていただくしかない
全く違う感情が芽生える
正直に言って、「辞めたい」と思ったことは、何度もあります。それでも誰かがやらなきゃいけない。何の見返りも求めず、野党の私を支え、「この国の民主主義を守ってほしい」「みんなが幸せになる政治を実現してほしい」と純粋に願い、支え、運動をしてきてくれた名もなき市井の人々。その皆さんの思いに応えたい。親戚のおじさん、おばさんよりも心配してくれて、一生懸命にいろいろな活動をしてくださる方が大勢いるわけです。そういう人たちの想いに応えたい。
最初の選挙の時からなのですが、「なんでそんなにみんな一生懸命やってくれるの」という思いです。横越町議会議員選挙の最終日、みんなでハンドマイクを持って、街中を歩いていた時、仲間の女性たちの必死な姿を見て、私には熱いものが込み上げてきました。「何故みんなそんなに一生懸命やってくれるの。ただひたすら純粋に!」。「私はみんなの期待に応えて自分ができるだけのことをやったのか」「まだ、『なんで選挙なんて』という気持ちはなかったのか」「このみんなの想いに何としても応えたい」。その時のことは今でも忘れません。
ワーク・ライフ・バランス支援体制
女性議員は、意識的に男性議員以上に結果を出してなんぼみたいなところがあり、結局無理をしてしまう。そもそも選挙運動が過酷すぎる。当選した後も、仕事と家庭の両立に苦しんでいる女性議員が大勢います。
それでも国会は変わってはきています。先日、参議院の我が会派の中で、国民の代表として、負託に応え、その責任を果たすため、「ワーク・ライフ・バランス支援体制」をスタートさせました。不妊治療で委員会への出席が困難になるなど、いろいろな課題が明らかになってきました。男性女性を問わず悩みを抱える議員の相談を受けて、必要があれば、委員会の規則や法律の改正も視野に入れて対応していきます。育児、介護、不妊治療は、ワーク・ライフ・バランスを考えた時に必ず直面する問題です。国会議員が国民の負託に応えられるよう相談体制を作ったわけです。新人の女性議員の提案がきっかけです。新たに女性議員が参画することによって、国会の慣習や規則を変えていく動きが始まっています。