東日本大震災・原発事故から 10年を超えて それぞれの「あの日」から

安住淳 衆院議員(宮城県5区)

 民主党政権で国会対策委員長を務めていた際、国会内で被災したという安住淳議員。自らも被災者として宮城と東京を往復しながら、復旧復興に取り組みました。国会内で与野党の協力体制を構築し、やつぎばやに補正予算、関連法案を成立。その後財務大臣に就き、復興財源を捻出するため、復興特別税、特別国債(復興債)、復興特別会計を新設しました。震災当時から今日までの復興政策、今後の課題などについて聞きました。

政治や行政は、一歩でも二歩でも前に出て、困っている人を引っ張っていくことが非常に重要

――被災時の様子について 奇しくも10年前、与党の国対委員長として、この部屋(衆院本館第2控室)にいました。 天井のシャンデリアがものすごく揺れ、机の下にもぐりました。あまりにも激しい揺れだったので、関東大震災の再来ではないかと思ったくらいでした。その後、テレビで震源地が360キロメートルも離れた三陸沖だと聞き、本当に驚き、ゾッとしました。

 宮城県、石巻出身の私には、「津波が来る地震」か「そうでない地震」かが、ある程度本能的に分かります。あの時の揺れは、間違いなく大きな津波が来ることを思わせる非常にゆったりとした横揺れでした。これはとんでもないことになるのではないかと感じ、すぐに地元に電話しましたが、奇跡的につながった1人の秘書を除けば、事務所、家族、市役所に全く通じませんでした。

 数日経って石巻市長と話ができましたが、「市役所の1階部分が水浸しの状態でボートで移動している」と言われましたから、にわかには信じられませんでした。ようやく6日後に秋田経由で石巻に帰ることができました。私の家も被災したので、市役所に小さなスペースを借りて、そこに寝泊まりしながら、市役所幹部とともに災害対応に当たりました。 毎朝6時と毎晩10時に会議を開き、被災者の救援、行方不明者の捜索、避難所の設置、ご遺体の安置など、ありとあらゆることをそこで決めながらやっていきました。一番大変だったのは、避難者への救援でした。当初は石巻だけでも500カ所の避難所がありました。これほどあると、朝昼晩の食料や物資を届けられないのです。批判もありましたが、1000人規模に集約した避難所にするため、小中学校の体育館に移動してもらいました。これで3食、防寒着などを提供できました。

 当時、同時並行で悲劇が至るところで起きました。この惨劇を目の当たりにし、地域全体が放心状態でした。皆さんが現実として、本当に考えることができなかったのです。それを見て、改めて思ったことは、どんな困難に遭っても政治や行政は、とにかく一歩でも二歩でも前に出て、困っている人を引っ張っていくことが非常に重要だということでした。

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与野党で激しく対立している場合ではない

――国会対応をどう進めましたか まず、自民党、公明党、共産党の国対委員長と協議し、しばらく国会審議を全て取りやめることで合意しました。これほどの大震災でしたから、与野党に関係なく総力戦になると思い、何度も4党の国対委員長で会談し、「与野党で激しく対立している場合ではない」「協力体制を作ってやっていこう」という枠組みをつくりました。

 与党国対委員長ではありましたが、地元の石巻が最大の被災地になっていたので、週末金曜日から月曜日は地元、火曜日から木曜日は東京で対応に当たりました。週の半分は、被災地にいましたので、国会に戻ると、閣僚を含めて与野党の皆さんが私の話に耳を傾けてくれました。一番リアリティがあったからだと思います。被災した三陸地域の特性をイメージしやすいように政治家や官僚たちに説明しました。

 何をするにしても、本予算では全く足りず、4月上旬から補正予算編成に取りかかってもらいました。ただ、瓦礫だけでも青森から千葉までと膨大に出て、被害総額を推計することが困難を極めました。兵庫県知事から瓦礫積算の専門チームを派遣してもらい、必要経費を算出し4兆円に及ぶ第1次補正予算を決定。大型連休返上で国会審議し、5月2日に全会一致で成立させることができました。

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 壊れた自動車、船舶、家屋など、石巻では100年分の瓦礫が出ましたが、それが至る所に散乱し、その撤去が大きな問題でした。明らかに壊れた車でも所有権があり、他者が勝手に動かせるものではありませんでした。故仙谷由人官房副長官(当時)や法務省などに対応を相談しました。それで「自動車を一カ所に集めて、公益上の都合で移動したので、異論がある場合は申し出てください」という旨の貼り紙をし、瓦礫を整理していきました。

 一方、震災翌日の3月12日に東京電力の福島第1原発で水素爆発。震災・津波災害に加えて原発事故も重なるという未曽有の事態を受け、官邸の菅直人総理も枝野幸男官房長官も原発事故対策、とにかく原子炉を冷却させることに必死でした。いつ収束するのか、どれくらい復旧費用がかかるのか、誰も予測できず、福島では格闘の真っ最中でした。半年くらい生きた心地がしませんでした。

未来の人たちにツケを残さず、今を生きる私たちで復興財源を捻出する

――復興税導入、復興特別会計新設の経緯について 7月29日に政府が取りまとめた「復興の基本方針」は10年間で23兆円程度の事業費がかかると見込まれました。これだけの財源をどう捻出するか、消費税を増税させてもらって、2%程度を10年から15年間充てたらどうかという意見もありました。消費税は、年金、医療、介護に振り向けないと国民の理解を得られないだろうと断念しました。

 与野党や政府内部で激論の末、9月に意見集約したのは、「未来の人たちにツケを残さない形で、今を生きる私たちで復興のお金を捻出しよう」という方針を決めました。それに沿って、政府が保有しているJT株式の売却などの税外収入や歳出削減で財源を捻出するとともに、復興のための特別国債(復興債)を発行することにしました。

 復興債の償還財源については、国民の皆さんに薄く広くご負担をお願いするということでいわゆる復興税(復興特別税)を設けました。結果的には当時、復興債を何兆円も買ってもらいました。財務大臣だった私は、復興債を買ってもらった人に私のサイン入りの礼状を出しました。

 復興資金の透明化と復興債償還を適切に管理するために東日本大震災復興特別会計を新設しました。なぜそうしたか。暮らしに必要な一般会計の予算に復興予算を混ぜてしまったら、どこまでが復興関係で、どこまでが通常の予算かが分らなくなってしまうと考えたからです。復興は長くかかるし、別途財源を手当てしたので、それに特化した会計にしようとしたわけです。

 復興特別会計を創設することを決めて、財源の確保ができれば、そこから予算を使ってどう復興するかというフェーズに移ります。津波災害の被災地については、この会計を通じて復興を進めました。一方、福島の原発事故に伴う事態に対しては、予算を計上できる状態では全くありませんでした。東京電力にどのような賠償責任を負わせるかなど、さまざまな問題に直面していました。

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霞が関の仕組み、やり方に厳しい目を向けることが大事

――復旧・復興経費の検証について 復興特別会計が動き始めて1年経った頃に気づいたのですが、復興予算にもかかわらず、遠く離れた和歌山の漁港整備に数億円の予算が使われるなど、目的外利用が出てきました。政治は何兆円、何千億円という大きなことを決めますが、何十億円、数億円単位の細かな予算の個所付けになると、監視の目が及ばなくなります。こうした事態を防げなかったことを私たちは反省し、責任を感じています。

 それでは膨大な予算、行政をどう監視するか。それは個人に頼っても無理です。アメリカのように議会に行政監視の権限や機能を持たせることです。日本の国会の法制局、事務局も霞が関の影響下にあります。三権分立と言っても、行政府と張り合える組織がないのです。国会に予算の目的外使用のチェックや行政監視を担う組織を設けるべきです。

 予算のムダ使いを防ぐには、元、つまり本予算を締めることが一番。元を締めなければダメです。時代遅れや不要不急の予算は、とにかく止めてしまう。それと同時に補正予算をできる限り組まないこと。本予算だけ綺麗に見せて、秋に行う補正予算に本予算で計上できなかったものを散りばめるということが霞が関で常態化しているからです。

 霞が関、行政府がおこなっていることに私たちは疑問をもっています。民主党政権が霞が関と喧嘩したと悪く言う人がいますが、今回の総務省の接待問題が典型的な事例です。長期政権の中で霞が関に対するチェック機能が働かず、特定の会社にさまざまな便宜を図ってしまった。こういうことがないよう霞が関の仕組み、やり方に厳しい目を向けることが大事です。今度、私たちが(政権を)引き受けた時は、どう透明性を図るか、チェックするかが一にも二にも大事な仕事になります。