東日本大震災・原発事故 10年を超えて それぞれの「あの日」から
横沢高徳 参議院議員(岩手県)
ロシア・ソチ大会に向けて、長野県のスキー場でパラアルペンスキーのナショナルチームの合宿中に被災したという横沢高徳議員。地元に戻ってから手で運転できるマイクロバスに支援物資を積んで子どもたちとともに、岩手県沿岸部の津波被災地に毎日通い続けたという。
手で運転できるバスに支援物資を積んで沿岸部に通う
――震災当時について ロシア・ソチで開かれるパラリンピック大会に向け、アルペンスキーのナショナルチームの合宿で長野県のスキー場にいました。トレーニングを終えて、ホテルでテレビをつけた時、大きな揺れがあり、テレビの画面から地元が津波被害に遭う姿を見ました。家族からすぐに電話連絡があり、「大丈夫だ」と聞きましたが、コーチから「すぐ戻れ」と言われ、荷物をまとめて、一般道を約20時間かけて岩手に戻りました。途中途中でガソリン缶を買ったり、皆さんを支援できるような食料や日用品を買って、車いっぱいに積み込んで帰りました。
――地元に戻った時の印象について 日本海側から北上し、秋田県までは電気が通っていたのですが、県境を渡った瞬間、地元岩手は真っ暗な状態でした。すぐに、これはもうただことではないと感じました。東日本が大きな被害を受けていたので、パラリンピックどころではなくなりました。生きるか死ぬかの状況の人たちがいましたから。被災地と呼ばれる岩手県でも、僕が住んでいた内陸部は、大規模な停電やライフラインの停止以外の大きな被害はありませんでした。
テレビ画面で津波被災地が映り、家も家族も流されて、「命があるだけ良かったです」と泣きながらインタビューに答えている女性を見た時、自分が突然の事故で車椅子生活になり、どん底を味わった時のことを思い出しました。「被災地だけど、僕は被災者じゃない。本当にピンチになっている人たちのために何かやらないと」と思いました。実家に手で運転できるマイクロバスが1台あったので、2人の子どもたちを乗せて、沿岸部の津波被災地に毎日通いました。
避難所に行けない赤ちゃん連れのお母さんたちに物資を届ける
――被災者への支援について 当初、道路を通れなかったのですが、3日間経った頃から行けるようになりました。今すぐに必要な物資、例えば、食料や水、赤ちゃんのためのミルク、オムツ、子どもの靴や衣服など。とにかく被災地に行って何が必要かを聞いて、地元に戻って支援物資センターで集めました。無い物は、地元で呼びかけて、必要な物資をかき集めて届けました。寒いと言っていたら、全国のスキー仲間からスキーウェアが届きました。また、ホコリの中で捜索している消防団員の皆さんに、仲間のスキーヤーやオートバイレーサーからゴーグルを送ってもらうなど支援を続けました。
――避難所の様子について 小さいお子さんや赤ちゃんを育てているお母さんたちは、まず避難所には行けないですし、当然泣き声もある。小さい一軒家に皆さんまとまり、そこで子どもたちに授乳したり、子どもたちの面倒をみたりしていました。ミルク不足だったり、熱を出してどうしようもないとか、水がないとか、そういう状況でした。支援物資をお渡しすると、涙ながらに「本当にありがとうございます」と感謝されました。障がいを持っている方たちは、水で流されていないところに皆さん集まっていました。ただ、普通の避難所は車いすなど、障がいを持ってる方にはキツイ。使えるトイレもなかったのですから。福祉施設に行っても、ライフラインが止まっていたので、衛生的な部分が追いつかないという面もありました。
どんな逆境に遭遇しても、何度でも挑戦できる社会を作らなければいけない
――国政に転じたきっかけについて やはり東日本大震災の経験が大きくあります。私自身が突然の事故で、車いすの生活になり、人生のどん底を味わって、そこから新たなスタート、人生の再スタートを切りました。
被災された方たちも全てを流され、新たな生活をスタートする中で、いろんなことを乗り越えてきたと思います。その課題に対して、私は車いすで生活する視点から、本当の意味の復興、皆さんの生活を守り、育てていかなければいけないと。どんな逆境に遭遇しても、何度でも挑戦できる社会を作らなければいけない。どのような障がいを持っている人も、どのような立場の人も生きる喜びを感じられる社会を作らなければいけないという思いが強くなり立候補しました。
――政治活動を始めてからの反応について 選挙の時は、選挙区から出る車椅子の候補者が初めてだったので、手探り状態でしたが、「車椅子から見える視点で世の中を良くしてほしい」という声をたくさん聞きました。私は25歳までは健常者でしたので、そこから見えた視点と、車椅子生活になってから見える視点の両方から良くしてほしいという声をたくさんもらい、皆さんが背中を押してくれました。
――被災地の現在のニーズについて 被災地に限ったことではないのですが、地方は人口減少、高齢化が深刻化しています。特に被災地は高齢化が進み、ハードはできたのですが、買い物に行くのも大変です。そうした皆さんの生活をどう支えていくのかが課題です。
また、震災の直接の影響ではありませんが、鮭など海産物が獲れなくなり、秋刀魚も不漁になりました。一次産業で潤ってきた地域ですので、多くの事業者が影響を受けています。そこに新型コロナウイルスの影響も加わったので、復興特別委員会では「寄り添って取り組んでもらいたい」と復興大臣に何度も指摘しましたし、大臣室を訪ねて申し入れもしました。
自治体による災害弱者の避難計画策定を国が支援すべき
――国会で力を入れて取り組んできたことについて 東日本大震災を経験しましたので、まず避難の問題です。東日本大震災、台風19号、熊本の7月豪雨も、高齢者や障がい者、身体が思うように動かない方の犠牲の割合が6割、7割、と多いのが現状です。そうした方々のリストである「避難行動要支援者名簿」は全国各地の自治体でかなり整備されてきました。しかし、どのように避難させるかという避難計画を策定しているのは全体の約12%です。災害はいつ来るか分かりません。明日来るかも分からない状況で、避難計画がないままに災害が発生したら、また多くの高齢者や身体が思うように動かない人たちが犠牲になります。
もう待ったなしの状況ですので、国として自治体の避難マニュアル作成を支援してほしいと提案してきました。やっと今国会に提出される災害対策基本法の一部を改正する法律案の中で、市町村に対して避難マニュアル作成を努力義務化できました。まだ効力は弱いのですが、一歩前進です。市町村は、通常業務で手一杯なので、ただ、義務付けるだけではなくて、国がしっかりとした財政支援、人材支援を行わなければ、策定はなかなか進まないと思います。国をあげて、しっかり取り組むべき課題です。
真の共生社会の確立、緊急防災庁創設を実現したい
――これから国政で取り組みたいことについて 共に生きる共生社会、真の共生社会を作りたい。それにはまず、子どもの時から障がいがある人もない人も共に学び、共に遊び、共に地域社会に参加できるような環境に大きく変えていかなければいけません。その為には、この国を大きく動かさないといけません。まずは野党の力を合わせて、政権を取り、真の意味の共生社会の実現をしていきたいと強く思います。
防災対策で言うと、今の省庁別対応だと、どうしても後手後手になってしまいます。気候変動で災害が多発してきているので、緊急防災庁か緊急防災復興庁のような新しい機関を作り、台風が来そうであれば事前情報を告知し、災害が起きたら災害対応、そして避難から復興まで一連で対応する。東日本大震災を経験した人たちの教訓、ノウハウをとにかく集め、プロフェッショナル集団を作ることが、この国で暮らす人たちの命と財産を守ることに繋がります。ぜひ実現していきたいと思います。